2010年6月2日水曜日

それでは Fonagy,Bateman 先生の考えは?

ここでFonagy, Bateman 著の「メンタライゼーション」のテキストについて読んでみよう。そこで Fonagy らは、従来の精神分析的技法がBPDを「作り上げる」とまではいわないけれども、その症状を悪化させるようなファクターと考えている。。例えばメタファーの使用や解釈などは、患者を混乱させ、患者を「心的等価物」や「ごっこモード」を主体としたかかわりに誘い込んでしまい、治療者とのパーソナルな関係が失われるというのだ。だからBPDとの治療では、あまり分析的ではない、もっと普通のかかわり、例えば明確化、精緻化、共感、直面過などの、むしろ通常の会話によるかかわりをむしろ必要とするという(p345)。
ここで心的等価物 mental equivalent やごっこモード pretend mode, ないしは目的論的姿勢というのは、著者らが考えている、BPDの主要な特徴なので、少し見ておきたい。心的等価物とは、例えば治療者とセッションが終わって、実際に見捨てられたような気になってしまうようなこと。それに比べてごっこモードは、自分におきたことが人事(ひとごと)のように思われること。このように考えるとごっこモードと心的等価物は、一見正反対の現象だが、両者は表裏一体といえる。
本来人間は、対人関係において他人に起きたことを自分の中で疑似体験し、また自分の実際の体験を他人でも起きているように想像するという機能を持つ。こうして私たちは人の気持ちを「わかる」のである。例を挙げよう。ある朝、あなたが友達と一緒に登校する。あなたが寒いと感じて、友達に「今朝寒いよね。」という時、自分の「寒い」という体験を、おそらくその友人も体験しているであろうと想像するから、そのような言葉が出る。ところがその友人がむしろ「いや、涼しくて気持ちいよ。」と言ったとして、あなたはそれを意外に感じたとする。そのときはその友人が涼しい、と感じていることを自分自身で想像し、しかる後に自分の「寒い」という実体験との落差を感じて驚くというわけである。つまり自分の体験を人の心の中に読む、他人の体験を自分の心の中に読む、ということがおきているわけで、この両方が機能することにより人の気持ちをわかり、相互の心のこもったコミュニケーションが可能になる。ところが自分の体験を実感できないと、あるいは他人の体験を自分に移すことが出来ないと、それらの体験は、まさに「人事(ひとごと)」になり、彼らのいう「ごっこモード」になってしまうというわけだ。
医原性、という問題とは少しはなれるが、結局 Fonagy 先生たちが行っているのは、BPDにおける「人の心のわからなさ」ということである。しかしこの話からすれば、一種の脳機能の不全というニュアンスもあり、そこには発達障害的なニュアンスが伴うといってもいい。ここで図らずもBPDとアスペルガー障害の関連性が示唆されていることになるが、もちろん両者は類縁疾患とはいえない。ただメンタライゼーションの障害として一方では、アスペルガーが語られ、他方では Fonagy などによりBPDが論じられていることも事実なのである。
さて「医原性」である。彼らは、古典的な精神分析的なやり方では、人の気持ちをわかりにくいという特徴をもつBPDの患者さん達を混乱させてしまうという。分析的な手法は、それが意味を持つためには心の充分な機能を必要としているのであり、BPDに対してそれを行うのは、処理不能なタスクを与えて混乱をさせるだけだ、ということなのであろう。その意味での「医原性」なのであるが、私が昨日まで考えていた内容とはかなり違うことになるだろう。
私の議論は、「ボーダーライン傾向は通常の人間が皆持っているのであり、治療者の分析的な態度はそれをかえって助長しかねない」という意味での「医原性」である。他方Fonagy 先生たちの議論は、「BPDの人は通常の人と異なっており、分析的な態度は彼らを混乱させることで病理を助長する可能性がある」という主張である。後者の方はより理論的であり、患者の認知プロセスに関する議論であるのに対し、私の考えは、情緒レベルでの影響を扱っていることにある。(しまった。また彼らと私を同格のように書いてしまった。)