2010年6月22日火曜日

(続き)

私の体験では、新しい発想を得る前に、ある概念が「気になる」ことがしばらく続く。私にとって「カオス」と言う言葉が気になり出したのは、1990年代の終わりころだろうか?外傷理論に関する考察が増え、そのあまりの「反精神分析」的な考え方に嬉し涙を流していたころである(ジョーダンである)。「カオス」とは普通「混沌」と言う日本語訳が当てはまり、まさにめちゃくちゃ、「味噌も糞も一緒」と言う意味だが、実はカオスとは非常に美しい理論である。そのことを知って私はカオス理論にますます魅せられていった。そしてカオス理論から見た心とは、まさに私が思っていた心のイメージに見合ったものだったのである。断っておくが、心は「カオス」ではない。脳は機械ではないから、その働きは厳密な意味で決定論には従わないからだ。しかし十分「カオス的」なのである。
私の頭にこのころ出来上がっていたのは、機械論的なあり方からほど遠い、むしろ自然界に見られる動き、例えば天候を含む自然現象になぞらえた心のイメージであった。天候の動きには非常に大雑把な法則があり、数多くの一見偶発的なことが生じる。例えば天候は西から東に流れる、梅雨は6月ごろに訪れる、などは大雑把な法則だ。しかし午後小雨がいつから降るのか、雷はどこに落ちるのか、いつどこで小規模の地震が起きるのか、などは予測がつかない。人の心の動きもまさにそのようなところがあるのだ。このある種の法則性と偶発性の共存、そしてそこから生まれる心の不可知性こそが私たちの心であり、それを以下に理解し、扱うかが臨床家の役割、というわけである。