2010年6月15日火曜日

自己愛のフリーランを起こさない人は聖人君主か?

というテーマで書きだすわけだが、やはり高校時代に一時期サッカー部に属していた私としては、ワールドカップに触れないわけにはいかない。ニッポン万歳。でももう勝つことはないだろう。
ところで冒頭のテーマである。もうこの話題の展開はミエミエだったのではないか? 私自身にも胸のうちにそのような理想的なイメージがあることは事実である。
私はかつてあるエッセイ集(気弱な精神科医のアメリカ奮闘記、紀伊国屋書店、2005年)で、「自分たちは自らの存在を蟻のごとく思うべきであろう」と書いた。常に謙虚に、自分を小さな蟻のように感じていることが、自分に対する失望から身を守ることにもなる、というのがその要旨であった。その後私自身はほとんど気にかけてもいなかったその記述について、何人かの読者から問われることになった。「先生がそんなことをお考えなのですか?信じられませんね。」「とてもユニークな発想ですね。」私としては自分を蟻のごとく思うべきだ、と言う発想自体は決して独創的なものではないと思っていたので(もちろんそれを実際に実行できるかどうか、とはまったくの別問題である)そのことが意外だったことを覚えている。
昨日も、フリーランを防いでいるのは日常的な歯止めや警告である、と書いた。それは「~してはいけない」というあからさまな禁止である必要はない。たとえて言うならば、体重のコントロールに難儀をしている人が、毎日体重計に乗るようなものである。少なくとも自分の状態を客観的に示してくれるものがあれば、フリーランの抑制になる。そしてもしそれが存在しないのであれば、フリーランを防ぐのはかなり徹底したメンタルトレーニングと言うことになる。あるいは想像力と言うべきか。先ほどの医者を例に取ると、「うん、最近おれは病院内で肩で風を切る程度がほんのちょっと上がっているぞ。気をつけなければ。」と自覚する医者は少ない。「横柄度計」などというハイテクの機会が開発されて、病院の廊下に設置されて数字が大きく表示される、というのであれば別であるが。それになんといっても医師が肩で風を切るようになることによる実害はおそらくあまりないのであろう。その医師が内視鏡の主義があがり、テレビなどにも出て、全国から患者が集まったとしたら、ちょっとしたオーバーアクションや、最近流行の表現である「上から目線」などは周囲から期待されかねない。すると周囲からちやほやされて幾分舞い上がって横柄になっている自分に対する歯止めは、それに対する自分自身の倫理観や美的な感覚くらいしかなくなってくる。そしてそのような倫理観を持っている人が稀有であり、いわば聖人君主的とまで言いたくなるのは、実際に自己愛のフリーランに陥らない人が極めて少ない、と言う事実による。少ない、と言うのは特に数値化されていないし、そのような統計などあるはずもない。しかし私たちが実際に人を観察しているとわかることなのである。言うまでもないことだが、自己愛のフリーランは、その程度を問わないならば、あらゆる人に起きる可能性があり、その意味では観察対象はその気になれば身の回りにいくらでも存在するのである。
むしろこう考えるべきであろう。自己愛のフリーランを起こさないことはあまりにエネルギーを使うことであり、成人君主的な人間がそのことをそれほど気にするような必然性もないのだ。「彼はちょっとお高くとまっているんじゃない?」と言われることなど、実害さえなければ気にしないというわけである。おそらく成人君主はその知性、教養、人間理解の深さから、独特のオーラを発し、周囲を圧倒するだろう。人は彼を特別扱いする。そのとき彼が自分を蟻扱いすると、むしろ周囲が迷惑なのではないか。周囲が彼に少し立派な椅子を勧め、特別な場所を用意したなら、おそらくその方が収まりがいいからなのだろう。成人君主は独り言を言う。「やれやれ、ではまた蟻ではないフリをするか。」
つまり成人君主だって少し偉ぶる方が皆のためになる場合にはそうするのだ。しかしそれは自己愛のフリーランの結果ではない。ではナルのふりをしている人と、実際のナルとはとこが違うのだろう?それは彼のプライドをくすぐるようなちょっとした刺激をしてみることでわかる。ナルなふりをしている成人君主ならば、彼を知らない若者がボ●老人扱いをしても、自己愛憤怒は起こさずに、今度は●ケ老人を演じることもいとわないのである。
何を書いているのか分からなくなった。ということでこのテーマは今日でおしまいにしよう。