2010年6月13日日曜日

何を恥に思うのか?

これはすごく重要な問題だ。私は通勤の途中に乗客の観察をするクセがあるが、あからさまに化粧をしている人(当然女性である)の姿は確かに見ていて恥ずかしい。しかしもっと恥ずかしいと思うのは、座席をひとり半分ほど占めていながら、譲る気配を見せない男性(こちらはほとんど男性!)である! 私のような気の小さい人間は、すこしも体を動かさずに、半人分しかあいていない空席を広げてくれない二人の男性の間に割って入るのには勇気がいる。そんな時私は「この世でいちばん醜いのは、自分のことばかりを考えて他人に対する顧慮を見せない人の姿である」と感じる。
と言っても人はもともと利己主義的なものである。人の気持ちを顧慮するためには、ほんの少しだけ心の労力を必要とすることが多い。自然なままでいると、つい利己主義の方に流れていくのが私たち人間であるという自覚がある。だからこそ自分の中の醜さを見せつけているような他人をみて不快になるのかも知れない。
でもこれと自己愛の問題とどう関係があるのか?彼らは「恥ずかしい」姿を、電車の中で意図的に人目にさらしているのであるから、そしてそもそも自分たちの姿を恥ずかしいとは思っていないのであろうから、「自己愛を傷つけられて恥の感情を持つ」という図式自体が成立していない。というよりも、彼らは恥を知らない、恥知らず、という意味でいわゆる「ナル」(これも正式には「自己愛的」)といえるのであろう。
このように「恥知らず」としての「自己愛」と、恥を敏感に感じる自己愛とは矛盾することになる。自己愛を無関心(恥知らず)型と敏感型、ないしは厚皮型と薄皮型にわけるというGabbard のアイデアはここに関係している。しかし実は恥知らずの自己愛そして彼らの自己愛は、私たちの想像の埒外の、ほんの僅かな他人とのやりとりにより損なわれ、怒りの暴発をうむのである。無関心型のナルシシストは、実は自分の取り巻きの反応に極めて敏感で、すこしの反発にも、そこに自分に対する忠誠心の欠如を感じ、あるいは自分に対する悪意や殺意を感じとってしあう。独裁者に典型的に見られるこのパラノイアは、やはり「自己愛のフリーラン」の一つの表れと言えるだろう。