2010年6月10日木曜日

やはり恥の話は面白い

こうやって見ると、結構同じ事を繰り返し言っている。そこで私がこの問題に着目したきっかけを少し紹介しよう。
992年くらいだっただろうか? その頃「精神分析は罪悪感について扱うことが多いが、恥についてはどこにも出てこないぞ」という発見があった。ちょうどその時アメリカの留学先に、かの小此木啓吾先生がいらしていた。私は何かの話の弾みで「私はこれから恥と精神分析をテーマにします」と申し上げた。しかし先生から何ら反応は聞かれなかった。もしかしたら先生に聞こえないぐらいの小声で言ったからかもしれない。でもこの時が、後に「精神分析界の恥と言えば岡野だ」と呼ばれるようになった私の研究の端緒であったのだ。<ジョークである。>
このように言ったからといって、私のオリジナリティというわけではない。Andrew Morrison のShame-Underside of Narcissism. という本がすでに出されていて、恥を精神分析の理論の中で再発見しようと書かれてあった。私はそれを読んで多いに同調したのであるが、もともと昔から恥の病理と言われる対人恐怖に興味を持っていたからである。またまだ英語で出たばかりのMorrisonの本の内容を把握している日本人は少なかった。アメリカでの話題を日本に伝える、ということも日本では「オリジナリティ」と呼ぶわけである。<← いちおう皮肉のつもりである。>
しかし私自身の名誉のためにもう一言付け加えるならば、私達の日常心理の中で恥によって動かされることは、罪悪感その他による場合よりはるかに多い、ということをこのころは自覚し始めていた。これだけは、まさに私自身の炯眼である<←誰も言ってくれないので。>