2010年6月9日水曜日

自己愛の傷つきと怒り

もう一歩、自己愛について話を進める。かつて私は「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)というテーマで自己愛の問題を論じたことがある。怒りは「抑圧―発散モデル」に従って理解されることが多いが、実は「自己愛モデル」の方が説明手段として有効な場合が多い、という趣旨だ。怒りとはすなわちプライドの傷つきへの反応として生じることが多い。プライドの傷つきを恥の感情と同等のものとするならば、これもまた恥と自己愛の議論の妥当性をかなり具体的な形で示していることになる。(この議論のソースは、コフートの自己愛憤怒 narcissistic rage にあることは言うまでもない。)
この議論は家庭、学校、職場などに見られる怒りや暴力の問題、ないしは社会における犯罪に関係した暴力をいかに捉え、いかに扱うかという問題に確かな視点を与えてくれると思う。怒りを理解し、その暴発を最小限にするひとつの方策は、人間が体験する恥の体験に注目し、それを雪ぐことである。もちろん怒りが表現される可能性のある状況に立ち入り、そこで密かにプライドの傷つきを体験している人を見つけることなど不可能である。しかし怒りを顕にしている人を前に、「この人は傷ついているのだ」と捉えることは、その怒りに対してただ単に怒りで応えるよりもはるかにソフィスティケートされたものといえるだろう。実はこの視点は、治療にも直結しているのである。