2010年6月30日水曜日

快感の条件2

私たちは、「あ、そうか!」体験を大概心地よく感じる。そしてその体験とは、ある思考ともう一つの思考がつながった状態なのだ。映画や推理小説でも、話が展開していくうちに、前に出てきた伏線となるシーンが思い出され、「ああ、あそこがこう繋がっているんだ。」と感じることがある。たいがいはこれは快感である。
繋がる体験とは、どういうことか? それはわかりやすく言えば、脳の活動が「同期化」することである。心理学の実験で、二つの異なる棒A,Bをスクリーン上で動かすと、視覚野で、A,Bに相当する別々の部分が興奮する。そしてそれらの相はばらばらなはずだ。別々の体験だから。ところが二つの棒は実は連動していて、その細い連結部分Cが覆いで隠されていたために、それらは別々のものとして認識されていたとしよう。そこでその覆いを取り去ると、被検者は、A,Bは一つの全体の別々の部分であるとみなすようになる。するとA,Bに相当する視覚野の二つの部分は、相変わらず興奮し、その細い連動部分Cに相当する部分も興奮を見せるのだが、以前と違うところはA,Bに相当する部分は同期化している。つまりサインカーブの層が一致していることになる。層が一致している体験は、一つの繋がった体験なのだ。
生物の脳はおそらくこのとき大部分は快感を覚える。それは彼らの自己保存本能に合致するからだ。全体をわかること、一部の動きから全体を知ること、それは敵から身を守るために必要なことだからだ。サバンナの草むらで、ライオンが身体の大部分を隠している。頭と尾の一部だけが別々に見えているとしよう。それを見ただけでライオンの全体を把握する能力のあるシマウマは生存の可能性が高くなるだろう。だからその種の能力は、快楽原則的に保証されている必要がある。人間が物事を「わかる」能力も同様だ。では一番大きな「つながり」を脳が実現したらどうだろうか? AもBもCもDもEもFも・・・・・みながひとつであるという体験。それは一種の悟りの境地に近く、宇宙といったいとなった状態といっていい。それは狂気のきびすを接していて、同時に・・・・カイカンでもあるのだ。

2010年6月29日火曜日

快感の条件1

快感の条件の一つは慣れと、新奇さの微妙なバランスである。例をあげよう。私たちはよほど音楽的な才能に恵まれていない限りは、初めて聞く楽曲に心を動かされることは少ない。たいてい何度か聞いて、サビの部分のメロディーを覚え始めるあたりから、それが気になるようになる。楽曲はおそらく20~30回くらい聞いたころが旬になる。一番感動する時期だ。涙を流すこともある。このころは、曲が半ば頭に再生可能で、しかし細かい部分はまだ不確定な状態だ。つまり十分に慣れてはいずに、その曲の「新奇さ」が残っている状態だ。そのうち聞き飽き始める。かなり聞き飽きそうになったら、半年くらい「寝かせておく」とまた感動がよみがえってくる。しかし再び聞いても、飽きるのも早くなってくる。ということで私は好きな曲はなるべく聞かないようにしているのが得策だ(?!)。
ちなみにこんな内容を、去年の春、NHKのFM番組に北山修先生に呼んでいただいた時に話した。その流れを追ってもう少し書くと・・・・

ところで曲を好きになることと、恋愛とは似ている。親しみが増し、でも慣れ切っていないような相手が一番「好きな」相手なのだ。ただし好きな相手の場合、飽きないように何年も「寝かせておく」わけにはいかない。相手も古くなるし、こちらも古くなるからだ・・・・。

とにかく慣れと新奇さのバランス、である。言い方を変えれば、全く自分の血肉化して、新鮮さのないものは、私たちを惹き付けることはない。完全に知ってしまえばおしまい、ということだ。これは人に当てはまるだろうか?性的な意味ではそうかもしれない。しかし人間として、という意味であれば異なる。人は毎日姿を変え、新鮮でいられることができるからである。<これから、2,3,4と考えなくては。>

2010年6月28日月曜日

何が快感かは、人により全く違う

何が美人の基準化には様々な議論があるが、それは何らかの形での調和性を備え、快感中枢を刺激するのであろう。その調和性としては、例えば左右対称であるという点は重要だったりする。美人や美男の顔をコンピューターで操作して、片側だけ拡大した顔を作ってみればすぐにわかるだろう。また美形の基本が「平均顔」であるといわれるのもよくわかる。

快感原則について考える上で極めて重要なのは、それには大きな個人差があるということだ。といっても大雑把な共通点はいくらでもある。いくつかの共通点と個人差との組み合わせが、快感の大きさを決定する。
人の顔を見る際の心地よさを考えよう。整った顔の若い女性の写真が週刊誌の表紙をこれほど飾るのはなぜか?ニュースキャスターやアナウンサーやお天気お姉さんが、美人であるのはなぜか?これらは人の整った顔を見て私たちが快感を得るという原則におおむね沿っている。一般的に美形と呼ばれる人たちがいて、彼女たちがキャスターの役を射止めるのには理由がある。もし番組改編で、新しいお天気おねえさんになった人が、この美系に属していないのであれば、たちまち物議を醸すだろう(ただしNHKの場合は別という説あり。でも最近はほとんど民放並みだぞ。)さて、ではだれが特別人気があるか、という話になるとたちまち個人差が出てくるということになる。
(平均顔については瀬山淳一郎さんのブログより拝借しました。)
例えば目と目の感覚、鼻と口との距離などが「平均的」であることは、それを見た際の抵抗が少なく感じるという意味では調和性に寄与するのである。(でも何が調和性を備えているかと言えば、実はそれが快感中枢を穏やかに刺激するもの、と逆に定義されるのかもしれない。快感中枢の性質が、調和性を定義する、というわけだ。私達がド、ミ、ソ、の和音を心地よく感じるからこそ、それが和音となるのだ、など。
ところで全員音楽に関係しているM1のOゼミ生に出題。ワールドカップの例のブブセラ。あれを少しでも耳触りのいいものにするためにはどうするか?オカベ君、どう? ヒント:もし三種類の長さの違うブブセラを…・・

2010年6月27日日曜日

Win-win の原則 -快楽原則的な人間関係の基礎

私は3年余り前から、「教師」となったわけだが、これも結構悪く無いと思うようになってきている。それまだはもっぱら「主治医」だった。主治医としてあることには慣れているが、「教師」には時間が少しかかった。しかしわかったことは、患者さんも学生も同じだ、ということである。これはもちろん聞き捨てならないかも知れない。もちろん学生さん達が精神科的な問題を抱えているというわけではない。そうではなく、同じような心構えで対面すればいい、ということである。それは一言で言えば「お客様」だということである。いや・・・・・・、少し違うか?彼らがあって私がある、という関係というべきか。彼らがこなければ(治療に来る、教室に授業を受けに来る、という意味で)、あるいは彼らが満足しなければ私もつまらないしやりがいがない。仕事が苦痛になるだろう。ということは彼らと私がwin-win (相手も特をし、自分も得をするという意味の英語的表現)になる状況を探すことになる。逆に言えば、それを考えてさえいれば、あまり仕事上で迷うことはない。
このwin-win の原則は、しかし案外忘れられがちなのである。それは自分が遣っていることが当たり前である、と思い込むことであろう。患者が来て当たり前。授業には生徒が出て当たり前。でも向こうが受診や受講をして直接win するものがなく、ただ単位をとるため、薬をもらうため、ということになるとお互いに不幸になるだけだろう。
このwin-win の原則は意外に便利だ。少なくとも人間関係でどうもしっくりこない時、実は自分の思っているwin-win と相手のそれが食い違っている場合、ないしは自分のwin が相手のwinよりいつの間にか大きくなりすぎて、事実上 win-lose の関係になっている場合である。その理由を一つ一つ検討すればいいわけである。つまりは人間関係がうまく行かないとしても、「私が悪い」からではなく、win-win 状況の把握が間違っている、計算違いをしている、ということになる。自分を過剰に責めなくてもいい、ということだ。(続く)

2010年6月25日金曜日

初めての試み

昨日は私の勤務先の大学院のゼミで、このブログのことが話題になった。彼らは自分たちのことをかかれることにまんざらでもなさそうである.しかしそれだけにブログで彼らのことを話題にすることには非常に微妙な問題が生じるということを感じた。実際にしたことはまだないが、何事も実験精神は必要である。ちなみに身元の割れている人間がブログで書く内容は、非常に限られている。私が以前のバージョンで、一月に一度も更新しなかったのは、この問題があったからだ。これはもう少し広くは、症例の公表の問題ともかかわってくる。私は米国にいるときは、それこそどのような患者さんのことも抵抗なく書くことができた。絶対に彼らがそれを読まないし、読者が読んでも誰のことかわからない。臨床場面が地球半回転分離れ、言語も違うとなれば、プライバシーの問題は事実上なかったのだ。
しかし日本に帰って事情は一変した。私を知っている人がそれを読むとなると、そしてその人たちのことを私が書くという可能性が高い以上、私が好き勝手に書くことは、それを読んだ人に、裏切られたり、深く傷つけられたり感じさせる可能性がでてくる。結局誰が読んでもその人が傷つかないような内容にしなければならないが、そうなるとちょうど手足を縛られた状態になり、話題は非常に限られる。せいぜいカミさんのことか(コンピューターは毎日見ていても、私の書くのもには関心がないから読まない)、うちのチビ(犬だから、マウスがクリックできない)、あるいは田舎の両親についてか(そもそもPCを持っていない)である。
そもそもプライバシーの保持とはどういう事か?私が「●●君は、●●である。」と書いたとき、ああ、あれはAさんのことだな、と不特定多数の人がわかるのでは困る。しかしAさん自身にのみそのことがわかるのはどうか?Aさんにしてみれば、前者は困るが、後者についてはいいというかも知れない。少なくともプライバシーの問題は、後者のほうがはるかに害はないことになるだろう。そして私が書くAさんの大部分について、私は守秘義務がないのである!!

2010年6月24日木曜日

(続き)

気象モデルが心のモデルとどのようにつながるのか、という点は分かりにくいかもしれない。しかし気象現象を一つの流体の動きと考えると少しわかりやすい。コップの中に入っている水を攪拌し、その動きをみる。100回試してみると、100回とも異なった水の動きを見せるだろう。攪拌棒の動きをほぼ同じようにすれば、水の動きも似たようなものになるが、細かい動きは決して同一にはなりえない。前回はできた小さな渦が今回はない、あるいは渦の形が微妙に違う、などのことが起きる。コップの中の水=流体はその分子の巨大な集合である。そしてその規模を気の遠くなるほど拡大すると、海洋となり、大気圏の動きとなる。そこには法則性と偶発性の共存が起きる。
心のモデルでそれに見合うのが、いわゆるニューラルネットワークである。これは巨大な数のニューロン(神経細胞)からなるネットワークである。ここのニューロンは、流体を構成する分子のように移動はしない。その代わりニューロン間の信号の伝達が、いわば個々の分子のように働き、そこで流体現象が起きている。そのような説を提案したのが、ノーベル賞受賞者のジェラルド・エデルマンである。彼は心とはどのように生じるかを考え、次のようなモデルを提唱した。
まず心の生じる場を構成するのは、巨大な数の、互いに結びついたニューロンからなるネットワークである。そして個々のニューロンの間、あるいははニューロン群の間の結びつきが様々なレベルで生じ、そこでの再入による結合 reentrant connectionこそが心が生じる素地となるという。再入とはあるニューロン間の信号の流れが、ちょうど逆方向の流れにより裏打ちされるということだ。彼が特に主張するのが、「視床皮質間の再入による連絡」である。皮質とは大脳皮質で、まず様々な感覚器からの入力がここで処理され、大雑把に仕分けされる。次にそれらは視床に運ばれて、そこで統合されるわけであるが、この皮質と視床の間の情報の往復運動が、その感覚が意識されることだ、というのである。
これはエデルマンが提唱している心の生じ方の仮説であるが、もう一つ彼が提唱しているのは、ニューロンによるダーウィニズムという考え方である。ニューロンの興奮は、いわば「流行り」みたいなところがある。あるイメージを思い浮かべる、ということはイメージを形成することに用いられるニューロンの大多数が、そのイメージの形成に参加するということの結果である。しかしある時にそれらのニューロンが何に多く投票をした結果、そのイメージがメジャーとなって思い浮かべられるかは、ちょうど流行り廃れのような偶発性を備えている。だから同じイメージを浮かべたつもりでも、前回と今回では細部が微妙に異なる、ということがいくらでも起きる。たとえばキティちゃんをイメージし、素早く描きとったとしよう。一時間後に同じことをすると、きっと細部はかなり異なるはずだ。すると顔はほぼ同じニューロン群が多数派を占めても、指の形となると結構いろいろな意見が出されて、その時々で何が採用されるかわからない、ということが起きるのである。細かいところは自信ないが、ざっとこんなことをエデルマンは言っているのだ。(Gerald Edelman, G., Tononi,G.(2001) A Universe Of Consciousness How Matter Becomes Imagination Basic Books.) 
これと気象モデルの類似性はいいだろう。心は気象と同じように、ある種の大雑把な法則に従って動く。ただしその動く先を予測することはできない。またその細かな動きには種々の蓋然性が働く。そのために細部から全体を推測することは極めて難しい(日本付近に停滞している前線を調べて、メキシコ湾内のハリケーンの位置を知ることはできない。こんにちは、という声のトーンから、その人のその日の気分の状態を知ることは大概は無理である。) ましてはそれらを動かしている深層、などというものは考えられない。大気のどこを調べても、中心はないし、同じように心にも中心はないのである。

2010年6月22日火曜日

(続き)

私の体験では、新しい発想を得る前に、ある概念が「気になる」ことがしばらく続く。私にとって「カオス」と言う言葉が気になり出したのは、1990年代の終わりころだろうか?外傷理論に関する考察が増え、そのあまりの「反精神分析」的な考え方に嬉し涙を流していたころである(ジョーダンである)。「カオス」とは普通「混沌」と言う日本語訳が当てはまり、まさにめちゃくちゃ、「味噌も糞も一緒」と言う意味だが、実はカオスとは非常に美しい理論である。そのことを知って私はカオス理論にますます魅せられていった。そしてカオス理論から見た心とは、まさに私が思っていた心のイメージに見合ったものだったのである。断っておくが、心は「カオス」ではない。脳は機械ではないから、その働きは厳密な意味で決定論には従わないからだ。しかし十分「カオス的」なのである。
私の頭にこのころ出来上がっていたのは、機械論的なあり方からほど遠い、むしろ自然界に見られる動き、例えば天候を含む自然現象になぞらえた心のイメージであった。天候の動きには非常に大雑把な法則があり、数多くの一見偶発的なことが生じる。例えば天候は西から東に流れる、梅雨は6月ごろに訪れる、などは大雑把な法則だ。しかし午後小雨がいつから降るのか、雷はどこに落ちるのか、いつどこで小規模の地震が起きるのか、などは予測がつかない。人の心の動きもまさにそのようなところがあるのだ。このある種の法則性と偶発性の共存、そしてそこから生まれる心の不可知性こそが私たちの心であり、それを以下に理解し、扱うかが臨床家の役割、というわけである。

2010年6月21日月曜日

私の考えの変遷

精神科医になりたてのころから今までの私の考え方の変遷について振り返ってみたい。とにかく人の心の働きに興味があったことは確かである。関心が精神分析に向かったのは、あくまでもその目的のためであった。フロイトの「精神分析」では特になく、「精神を分析する」という意味での「精神分析」を求めたのである。だから始めてフロイトの精神分析の概要を理解できたと感じたとき、「え、精神分析って、これだけなの?」と思ったことも確かだ。(なんと傲慢な!)
私が精神分析を学び始めてまずつまずいたのは、いわゆる心的決定論である。
・・・患者がセッションに5分遅れる。治療者は患者の側の無意識の抵抗を解釈する・・・・。このような分析のプロセスを知ってびっくりしたものである。これまで無意識の心の働きを知らないことで、自分はなんて物事が見えていなかったのだろう? ・・・・私はそういうレベルだった。人の心は無意識に支配されている。それを的確に知るためには、自分の、無意識を知る必要があり、そのためのトレーニングが必要となる。しかしそれにしては決定的な問題があるように思われた。人の無意識のエキスパートたる分析家達が、一つの夢に関して十人十色の解釈を行うのだろうか?トレーニングが有効なためには、人間の無意識内容とその意識レベルでの表現との間にある種の決定論的な因果関係が成立していなくてはならない。そうでなくては無意識を解釈により解き明かすという壮大な試みは論理的に破綻しているのでは・・・・・。私は精神分析を学び始めていたが、その種のプリミティブで、でも根本的な疑問に答えてくれる分析家の先生はいなかった。「そんなことは分析を本格的に勉強すればわかるようになるよ」という人と、本来精神分析に興味を示さない先生方がいたというだけである。ある意味では私は精神分析に向いていなかったのだろうか?それでも私は精神分析を学びにアメリカに行ったわけである。
それ以後の私の分析のトレーニングが波乱に満ちたものになったことは想像に難くないであろうが、米国の精神分析は極めて多くの流れを含んでいたために、私は好奇心を満たすだけの知的刺激をうることができた。しかしそれは自ずと精神の非決定論的な性質を描き出すもの、そして同時に人の心の問題をすこしでも解き明かし、解決する希望を与えてくれるものへと向けられることになった。それは脳科学でもあり、複雑系の理論でもあった・・・・。(続く)

2010年6月20日日曜日

(承前)
私にはやはりどうしても、●●先生が「人を斬る」ことを意図的になさっていたという気がする。それは先生が併せ持っていたきわめて愛他的で優しい側面と同居しているかのようなのだ。
私がここまで書いて思うことは、人は互いの持っている地位、権力、名声などにいかに影響を受けるか、そしていかに容易に理想化や脱価値化を起こすか、である。私はここで●●先生の実像に近づこうとしていて、結局先生も他の誰とも代わらない人間的な感情を持ち、気高い面と理不尽な面を併せ持った存在であった、ということを示そうとしているのだが、それは●●先生が普通の人であったならばまったく意味がないことである。彼が高名な先生であり、ほっておけばいくらでも理想化の対象となるからこそ、そしてその彼を普通の人間として描くことに意味も出てくるだろう。普通の人の普通の実像を描いてもなんの意味もないのだ。
●●先生が非常に巧みに「斬って」いらしたことがわかる。それは周囲の人に畏怖の感情を与え、彼の一挙手一投足は余計に注目を集め、その後の彼からの慰撫の言葉もそれだけ有り難いものになった。彼は厳しさと優しさを備えた優れた先達として讃えられることになる。でも何のために「斬る」のだろう?何の権利があって、というべきだろうか?それともそれを問うこと自体が無理な話だろうか?
今日ある研究会で、分析家サンドール・フェレンチについて講義に司会として参加した。そこでフェレンチが彼の「臨床日記」で師匠フロイトに対する様々な不満や非難の言葉を綴っているという話になり、そこからディスカッションになった。特にフェレンチのフロイトに対する非難は正当化されるべきかという点について、私は次のように述べた。「フェレンチがあまりにフロイトに過剰な期待を寄せたために、フロイトに対する敵意を持つことになったのであり、それはフロイトにとっては理不尽なことではないか?」私は同じことが●●先生についても言えるのだと思う。人間としての先生に近づくことは、その様々な側面について受け入れることなのだろうと思う。(終り)

2010年6月19日土曜日

(承前)
「いまここでディスカッションを聞いていたが・・・・・」そしてワンテンポ遅れて「僕はA先生が正しいと思うね。」
私は今でもそのときの感覚が忘れられない。恥ずかしかった。というよりボーゼンとなった、という感じが近いか。大衆の面前での、しかも偉大な●●先生からの駄目出しである。ただしそこにはその議論の性質上、私かA先生かという議論では済まされない問題であるとも思えていたので、先生の断定ぶりに驚いたのである。あるいは本当に私は「間違って」いたのかもしれないので、ここの私の論点は非常に弱い。ただしその時の司会の先生も驚いたようで、「まさかここでいきなり●●先生がどちらかに軍配を上げられるとは思いませんでした」というようなコメントをなさった。
私は私の論点がなぜ●●先生にとっては「間違っていたか」とは別のことを考えていた。理由は特に先生はおっしゃらなかったからよくわからなかった。しかし何か先生の気に触ったことをしたのだろうか?と考えたのである。そして私の発表のくだりを思い出した。「私は自分の臨床体験を説明できる理論はないか、といろいろ探ってみました。精神分析理論でもよくわからない。●●先生の××理論でもわかりませんでした・・・・・・。」 しっかり言っていたのである。でもこんなことくらいであの●●先生が腹を立てて私に意趣返しをするなんてありうるだろうか? 私はまだ経験の浅い一臨床家に過ぎないのに。それに私は××理論を批判するつもりなど毛頭なかったのだ。ただそれでは私の体験を説明できないと感じたといっただけである。
その日の昼食時に、私に近づいてこられた先生は、「さっきは君の立場を支持できなくて悪かったね・・・・」もちろん私は恐縮したものだ。その先生の言葉が何を意味しているかなど、その瞬間にはわからない。ただあとになってから、ふと考えたのである。あの先輩が言っていたこととあまりに似ている・・・・。

2010年6月17日木曜日

●●先生の思い出

・・・というテーマで書かせていただこう。実は先生のことは二ヵ月前に書いたことがあるが、結局先生のよい思い出に終始してしまった。その後考えたのである。人はどうして●●●文にほめ言葉や賞賛する文ばかりを書くのだろうか? もう少し等身大の姿を描いてもいいのではないか? ●●を鞭打つのはよくない、という理屈はわかるが、すでに●●●●ない人に、初めてはっきりものを言えるということもあるのだ。
私の●●先生の思い出は複雑である。いろいろなご相談をしたことはある。いろいろほめていただいたことがある。でも私には先生からバッサリ斬られた、という思いもある。それは私を教え諭す言葉だったのかもしれない。でも同時に「斬られた」感も残ったのである。
実は同様な思いをした人は結構いるようなのである。●●先生と個人的な接触が始まる前に、よく先輩から次のような話を聞いた。●●先生がかなり厳しいことをおっしゃる。それが衆目の前で起きるから、当人は泣きそうになる。しかしその後に先生はそっといらして、優しい言葉で力づけてくれる、というパターンである。まるで罪悪感でも持っているようだ、とその先輩は言った。
私に起きたのも同様のことであったが、この先輩の言葉を聞いていてそれを予想していたというわけではない。むしろ体験してからその先輩の話を思い出したという順番である。(普通学会の大家から聴衆の面前でおしかりを受けるというようなことなど、だれが予想するだろうか?)
10年以上も前のある学会でのことだった。私は指定討論演題、というカテゴリーにエントリーをしていた。学会で結構長い時間を使うセッションで、それだけたくさんの聴衆を集めることにもなる。私はまだ海外にいて、その学会に対して門外漢だということもあり、あまり深く考えることもなく、指定討論演題を提出したのだが、今思えば大胆なことをしたものである。
その指定討論を引き受けてくれたのは、その学会の大御所A先生である。そして私の症例の発表の後、やんわりと私の視点が斬新であること、そのユニークさが学会員の一部にアピールするであろうことをのべたあと、それこそ真っ向から私の論点を否定しかかった。詳しいことは忘れたが、私の論点そのものが防衛の産物だ、というような主張である。この学会ではよくある議論の流れであるが、あたかも発表者のやってきたことを全否定しかねないような、論調である。その結果としてA先生が討論を終えた後の会場はしばし騒然となった。しかし私はA先生の主張をある程度は受け入れつつ、「いや、わかってくれる人は分かってくれるさ…」などと少しは余裕があった。そして確かに会場には、私の主張に賛意を示す意見もちらほら出ていたのである。そのときである。●●先生がおもむろに手を挙げたのは。(以下続く)。

2010年6月15日火曜日

自己愛のフリーランを起こさない人は聖人君主か?

というテーマで書きだすわけだが、やはり高校時代に一時期サッカー部に属していた私としては、ワールドカップに触れないわけにはいかない。ニッポン万歳。でももう勝つことはないだろう。
ところで冒頭のテーマである。もうこの話題の展開はミエミエだったのではないか? 私自身にも胸のうちにそのような理想的なイメージがあることは事実である。
私はかつてあるエッセイ集(気弱な精神科医のアメリカ奮闘記、紀伊国屋書店、2005年)で、「自分たちは自らの存在を蟻のごとく思うべきであろう」と書いた。常に謙虚に、自分を小さな蟻のように感じていることが、自分に対する失望から身を守ることにもなる、というのがその要旨であった。その後私自身はほとんど気にかけてもいなかったその記述について、何人かの読者から問われることになった。「先生がそんなことをお考えなのですか?信じられませんね。」「とてもユニークな発想ですね。」私としては自分を蟻のごとく思うべきだ、と言う発想自体は決して独創的なものではないと思っていたので(もちろんそれを実際に実行できるかどうか、とはまったくの別問題である)そのことが意外だったことを覚えている。
昨日も、フリーランを防いでいるのは日常的な歯止めや警告である、と書いた。それは「~してはいけない」というあからさまな禁止である必要はない。たとえて言うならば、体重のコントロールに難儀をしている人が、毎日体重計に乗るようなものである。少なくとも自分の状態を客観的に示してくれるものがあれば、フリーランの抑制になる。そしてもしそれが存在しないのであれば、フリーランを防ぐのはかなり徹底したメンタルトレーニングと言うことになる。あるいは想像力と言うべきか。先ほどの医者を例に取ると、「うん、最近おれは病院内で肩で風を切る程度がほんのちょっと上がっているぞ。気をつけなければ。」と自覚する医者は少ない。「横柄度計」などというハイテクの機会が開発されて、病院の廊下に設置されて数字が大きく表示される、というのであれば別であるが。それになんといっても医師が肩で風を切るようになることによる実害はおそらくあまりないのであろう。その医師が内視鏡の主義があがり、テレビなどにも出て、全国から患者が集まったとしたら、ちょっとしたオーバーアクションや、最近流行の表現である「上から目線」などは周囲から期待されかねない。すると周囲からちやほやされて幾分舞い上がって横柄になっている自分に対する歯止めは、それに対する自分自身の倫理観や美的な感覚くらいしかなくなってくる。そしてそのような倫理観を持っている人が稀有であり、いわば聖人君主的とまで言いたくなるのは、実際に自己愛のフリーランに陥らない人が極めて少ない、と言う事実による。少ない、と言うのは特に数値化されていないし、そのような統計などあるはずもない。しかし私たちが実際に人を観察しているとわかることなのである。言うまでもないことだが、自己愛のフリーランは、その程度を問わないならば、あらゆる人に起きる可能性があり、その意味では観察対象はその気になれば身の回りにいくらでも存在するのである。
むしろこう考えるべきであろう。自己愛のフリーランを起こさないことはあまりにエネルギーを使うことであり、成人君主的な人間がそのことをそれほど気にするような必然性もないのだ。「彼はちょっとお高くとまっているんじゃない?」と言われることなど、実害さえなければ気にしないというわけである。おそらく成人君主はその知性、教養、人間理解の深さから、独特のオーラを発し、周囲を圧倒するだろう。人は彼を特別扱いする。そのとき彼が自分を蟻扱いすると、むしろ周囲が迷惑なのではないか。周囲が彼に少し立派な椅子を勧め、特別な場所を用意したなら、おそらくその方が収まりがいいからなのだろう。成人君主は独り言を言う。「やれやれ、ではまた蟻ではないフリをするか。」
つまり成人君主だって少し偉ぶる方が皆のためになる場合にはそうするのだ。しかしそれは自己愛のフリーランの結果ではない。ではナルのふりをしている人と、実際のナルとはとこが違うのだろう?それは彼のプライドをくすぐるようなちょっとした刺激をしてみることでわかる。ナルなふりをしている成人君主ならば、彼を知らない若者がボ●老人扱いをしても、自己愛憤怒は起こさずに、今度は●ケ老人を演じることもいとわないのである。
何を書いているのか分からなくなった。ということでこのテーマは今日でおしまいにしよう。

2010年6月14日月曜日

自己愛のフリーランをどうするのか?

もうそろそろ自己愛のテーマはおしまいにしようと思う。もうあまり新しい展開はないことが書いていてわかった。これまでの内容をもとに原稿にするしかないが、今回少し広げておきたいのが、「自己愛のフリーラン」の問題である。書いていて思ったが、自己愛のフリーランは、人をますます恥知らずにしていく過程である。それが自己愛と恥の密接なはずの関係との対比で面白いと思ったからだ。
聖路加などで医者を見ていると、つくづく面白い。今日も隣の耳鼻科の前を通ると、私の目の前をいきなり男が出てきて横切って行った。白衣の前を開けたままで体をそびやかし、両腕を振り、病院内で上着のボタンをすべてはずし、肩で風を切って歩くようなその姿は、医者以外にはありえない。といってもまだレジデントのレベルではおとなしいが、シニアになるに従ってその姿は「偉そうに」なる。確かにその男は聴診器を下げていたから間違いないだろう。病院で一人偉そうにしている医師たち。どうしてこんなに分かりやすいのだろうか。
ここで何が「偉そうな」ふるまいの特徴かを考えてみる。それはおそらくプライベートな生活で取るであろう態度や姿勢に近づいた状態と考えることができる。社会の中で自分より「格が上」の人たちに交じり、服装などもきちんとし、小さくなって目立たずにいる状態から始まって、次第に地位を得て、そのような気遣いを失っていくプロセスを考えてみよう。自分が地位を得て病院での主人公になっていくこととは、そこで服装なども気にせずに我が物顔でリラックスして過ごすことである。肩で風を切っているかのような耳鼻科医は、むしろ自宅で一人でリラックスして気兼ねなく歩き回っているのと同じなのだ。自宅では「肩で風を切って」も跳ね飛ばすことを心配するような他人ははいない。白衣を着てもまた脱ぐ手間を考えたら、ボタンだって外すだろう。誰でも自宅でのくつろいだ振舞いを公的な場で見せたら、ものすごく「横柄」になるのだ。すると自己愛のフリーランとは、主観的には「徐々にくつろいだ振舞いをする」という体験であり、そこにさして後ろめたさや罪悪感を引き起こすような代物ではないかもしれない。彼らにとっては少しずつ気楽にふるまうようになるというプロセスに過ぎないのだ。
この変化を私が「フリーラン」と呼ぶのは、フリーランとは要するに自分自身に快適な形で少しずつ自らの態度や振る舞いや行動がずれていく現象だからだ。フリーランの例としては睡眠リズムがある。被験者に一切時間のキューを与えずにいると、どんどん就寝時間が遅くなっていくのだ。そしてそこには「~時までに寝なくてはならない」という規制が少ないか、または存在しないという条件がある。自己愛のフリーランを「リラックスして我が物顔でふるまうようになるプロセス」と表現したが、こちらの方も同様である。それを注意したりたしなめたりするような人がいないことが原因なのだ。白衣の前をはずしても誰もとがめない(あるいは他の医者もそうしているから、それがむしろ普通なのだ!?)というレベルのことからフリーランが始まる。そう、歯止めが効かないところで人はどんどん楽をするようになる、というのがフリーランであり、自己愛のフリーランも同様である。とするとこれは誰にでも起きることなのだろうか?どんな謙虚な人間も力を得れば横柄になり、自己愛的になっていくのだろうか?
ところでこう書いている私も医者であり、「医者は権威を持っている」というような表現はもちろん抵抗がある。自己愛のフリーランを批判するかのようなことを書いている私も、やはりそれを起こしている。例えば私は診察中などの姿勢がとても悪い。英語で言うslouching をしてしまう。すごく悪い癖だと思うが、直せない。衣服がだらしないのは、実は「地」であり、フリーランとはあまり関係ない。独身の頃はもっとひどかった。若いころはスーツやジャケットを着込んで患者と会うのは権威的だと思っていたから、アイロンのあたっていないシャツにジャンパーを着込んで病棟に出ていたりした。(これは別の意味でのフリーラン、だらしなさのフリーランか?)

2010年6月13日日曜日

何を恥に思うのか?

これはすごく重要な問題だ。私は通勤の途中に乗客の観察をするクセがあるが、あからさまに化粧をしている人(当然女性である)の姿は確かに見ていて恥ずかしい。しかしもっと恥ずかしいと思うのは、座席をひとり半分ほど占めていながら、譲る気配を見せない男性(こちらはほとんど男性!)である! 私のような気の小さい人間は、すこしも体を動かさずに、半人分しかあいていない空席を広げてくれない二人の男性の間に割って入るのには勇気がいる。そんな時私は「この世でいちばん醜いのは、自分のことばかりを考えて他人に対する顧慮を見せない人の姿である」と感じる。
と言っても人はもともと利己主義的なものである。人の気持ちを顧慮するためには、ほんの少しだけ心の労力を必要とすることが多い。自然なままでいると、つい利己主義の方に流れていくのが私たち人間であるという自覚がある。だからこそ自分の中の醜さを見せつけているような他人をみて不快になるのかも知れない。
でもこれと自己愛の問題とどう関係があるのか?彼らは「恥ずかしい」姿を、電車の中で意図的に人目にさらしているのであるから、そしてそもそも自分たちの姿を恥ずかしいとは思っていないのであろうから、「自己愛を傷つけられて恥の感情を持つ」という図式自体が成立していない。というよりも、彼らは恥を知らない、恥知らず、という意味でいわゆる「ナル」(これも正式には「自己愛的」)といえるのであろう。
このように「恥知らず」としての「自己愛」と、恥を敏感に感じる自己愛とは矛盾することになる。自己愛を無関心(恥知らず)型と敏感型、ないしは厚皮型と薄皮型にわけるというGabbard のアイデアはここに関係している。しかし実は恥知らずの自己愛そして彼らの自己愛は、私たちの想像の埒外の、ほんの僅かな他人とのやりとりにより損なわれ、怒りの暴発をうむのである。無関心型のナルシシストは、実は自分の取り巻きの反応に極めて敏感で、すこしの反発にも、そこに自分に対する忠誠心の欠如を感じ、あるいは自分に対する悪意や殺意を感じとってしあう。独裁者に典型的に見られるこのパラノイアは、やはり「自己愛のフリーラン」の一つの表れと言えるだろう。

2010年6月12日土曜日

「イラ菅と自己愛の問題」

応用問題として、昨日インターネット上で拾ったニュースを取り上げる。
「イラ菅」早くも炸裂 我慢の糸切れる (産経ニュース)2010.6.11 19:35 菅直人首相は11日、首相官邸でのぶら下がり取材で、記者団の質問に不快感をあらわにし、早くも短気な性格から「イラ菅」と呼ばれてきた本領を発揮した。記者団から、今国会の会期を延長しない方針をめぐり、野党側から「逃げている」と批判されていることを問われると首相の表情は一変。「何の批判ですか?」「なぜ批判が出ているのですか?」と4回にわたり、記者団を“追及”した。さらに、所信表明演説に具体性がなかったと指摘されると「全部聞いてました? もっと大変なことを申し上げたつもりなんですけど」と怒気を強めた。国民新党の亀井静香代表が金融・郵政改革担当相を辞任したことで鬱憤がたまっていたためか、首相就任からわずか4日目にして我慢の糸が切れたようだ。
さてこの怒りは何なのだろうか?「野党側から『逃げている』と批判されていることを問われると首相の表情は一変・・・」とある。彼は実際に国会で野党から、「逃げている」と非難されて顔色を変えるだろうか? たぶん否である。おそらく「お前たち記者くんだりに、何でそんなことをいわれなくちゃならないんだよ!」記者はうまく、「~と言われていますが・・・」と逃げているが、管首相にとっては、貴社から直接いちゃもんをつけられているのも同じなのだ。自分より下と思っている記者から、ききたくないことを言われることで、首相のプライドは著しく傷ついたのだ。昨日の「人はそれぞれ対人関係の中で『自分は~だ』というイメージを持っている」というのはこういうことである。「自分は野党の党首からこれを言われても仕方がないが、記者から言われて恥をかかされ手おとなしくしているような人間ではない。」というイメージを記者が傷つけたのだ。
ただし記者はただの記者ではない。ペンを通して、あるいはテレビでの映像を通して国民に訴えることの出来る「権力者」でもあるのだ。そして記者たちはそのことを知っている。こうして実は記者たちもまた深刻な自己愛のフリーランを起こしかねない人種であることも確かなのであろう。

2010年6月11日金曜日

「突発的な怒りの精神病理」というのも書いていたぞ

これまで自己愛の関連でいくつか書いている。一番最近のものが,「突発的な怒りの精神病理」(こころの科学148 p70-79, 2009.)も同様のテーマを扱った論文だ。このような特集を企画している人は,過去の同様の特集の執筆者を見ているのだろうが, 過去の私の3論文、つまり「怒りについて考える―精神分析の立場から」(児童心理 9月号,1181-1185,2006)「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)
「恥の倫理から見た自己愛問題」 精神療法 33:36-40,2007.の内容を見てのことだろう。そしてこの「突発的な怒りの精神病理」もそれらを踏襲している。だんだん新しいアイデアはなくなって,この論文では,失敗学が出てくる。つまり怒りの暴発とは,基本的には「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」に従うが,個々の怒りのエピソードにおいては,何がどう働くかは,予測不可能だ,ということをいっている。
実際私たちの自己愛が,いつどのような形で傷つきを体験するかは,最終的には予測不可能なところがある。私たちは「自分は~だ」というイメージを持っている。しかもしれが対人関係の中で微妙に構造化されている。だから同じことを同じ調子で,しかし自分よりすこし年下の人から言われるだけで,瞬間的な恥→怒り,という反応が起きる。そしてその際何がその人の逆鱗に触れるかは,簡単に予想がつかないことがある。
このことから一つ展開できるとすれば,自己愛の問題と年齢、ないしは発達段階の関係である。私はかねてから,自己愛パーソナリティだけは,発達の後半になって現れる,と主張している。これが例えばBPDだと,若い頃はその兆候がなくて,人生の後期にそれが明らかになる,ということはまずありえない。しかし自己愛の問題は,それこそその人が人生の成功を収め,社会的な地位を得て,その後に生じることがある。ある組織の長になり,そこから暴走するということがある。
この現象を私は「自己愛のフリーラン」と呼んでいる。曰く:「自己愛は,通常はその人に与えられた地位,名誉,財産の許す限りにおいておかれたその際は,上記の「自分は~だ」という定義がどんどん肥大して良く可能性があるのだ。<このテーマを今回は広げようか。>

2010年6月10日木曜日

やはり恥の話は面白い

こうやって見ると、結構同じ事を繰り返し言っている。そこで私がこの問題に着目したきっかけを少し紹介しよう。
992年くらいだっただろうか? その頃「精神分析は罪悪感について扱うことが多いが、恥についてはどこにも出てこないぞ」という発見があった。ちょうどその時アメリカの留学先に、かの小此木啓吾先生がいらしていた。私は何かの話の弾みで「私はこれから恥と精神分析をテーマにします」と申し上げた。しかし先生から何ら反応は聞かれなかった。もしかしたら先生に聞こえないぐらいの小声で言ったからかもしれない。でもこの時が、後に「精神分析界の恥と言えば岡野だ」と呼ばれるようになった私の研究の端緒であったのだ。<ジョークである。>
このように言ったからといって、私のオリジナリティというわけではない。Andrew Morrison のShame-Underside of Narcissism. という本がすでに出されていて、恥を精神分析の理論の中で再発見しようと書かれてあった。私はそれを読んで多いに同調したのであるが、もともと昔から恥の病理と言われる対人恐怖に興味を持っていたからである。またまだ英語で出たばかりのMorrisonの本の内容を把握している日本人は少なかった。アメリカでの話題を日本に伝える、ということも日本では「オリジナリティ」と呼ぶわけである。<← いちおう皮肉のつもりである。>
しかし私自身の名誉のためにもう一言付け加えるならば、私達の日常心理の中で恥によって動かされることは、罪悪感その他による場合よりはるかに多い、ということをこのころは自覚し始めていた。これだけは、まさに私自身の炯眼である<←誰も言ってくれないので。>

2010年6月9日水曜日

自己愛の傷つきと怒り

もう一歩、自己愛について話を進める。かつて私は「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)というテーマで自己愛の問題を論じたことがある。怒りは「抑圧―発散モデル」に従って理解されることが多いが、実は「自己愛モデル」の方が説明手段として有効な場合が多い、という趣旨だ。怒りとはすなわちプライドの傷つきへの反応として生じることが多い。プライドの傷つきを恥の感情と同等のものとするならば、これもまた恥と自己愛の議論の妥当性をかなり具体的な形で示していることになる。(この議論のソースは、コフートの自己愛憤怒 narcissistic rage にあることは言うまでもない。)
この議論は家庭、学校、職場などに見られる怒りや暴力の問題、ないしは社会における犯罪に関係した暴力をいかに捉え、いかに扱うかという問題に確かな視点を与えてくれると思う。怒りを理解し、その暴発を最小限にするひとつの方策は、人間が体験する恥の体験に注目し、それを雪ぐことである。もちろん怒りが表現される可能性のある状況に立ち入り、そこで密かにプライドの傷つきを体験している人を見つけることなど不可能である。しかし怒りを顕にしている人を前に、「この人は傷ついているのだ」と捉えることは、その怒りに対してただ単に怒りで応えるよりもはるかにソフィスティケートされたものといえるだろう。実はこの視点は、治療にも直結しているのである。

2010年6月8日火曜日

今度は恥の話か

「恥と自己愛」、ということで注文が舞い込んだ。もうだめだ。夏の間に4本書く事になってしまった。自転車操業とはこのことである。もはや快楽とかPES(快楽査定システム)どころではない。といって「恥と自己愛」に新しい問題意識はない。ということで、このブログは、なくてはならないものになってしまった。ここに書くことでしか、考えを先に進ませることができないのである。
それにしてもどうして注文を断れないのだろうか? 書くということは基本的に私にとっては無害なことである。注文に応じてかくということがなければ、おそらく私は本を読まない。快楽について、PESについてボーっと考えているだけで時間が過ぎてしまう。そしてこのテーマは本当に、論文や本の形が見えてこない。そのことを自分でよくわかっているからだろうか?
「恥と自己愛」ということですこし言いたいことがある。先日某学会の委員会があり、私はそこで素朴に感じたことを口にしてみた。すると多くの委員達に笑われ、実に恥ずかしい思いをしたのであるが、後でメンバーたちからは、私が口にしたことは結構良かったという反応をいただいた。結局皆頭では考えても、気恥ずかしいから口にしない、ということを私は口にしたようである。
私たちはちょっと間が悪い、格好がつかない、人から変に思われる、ということに極めて敏感である。私たちの社会生活のほとんどは、自分がそのような事態に陥るのを避ける耐えにエネルギーを費やしている。「恥」はまさに私たち人間の社会生活を支配しているのだ。それなのになぜあまり論じられないのか?それはその恥の感覚について論じることそのものが恥の感覚を生むからだ。
一方自己愛についてはどうか?自己愛は少なくとも精神分析のテーマとしては非常にしばしば論じられる。人は自己愛について語ることには「恥」の感覚が伴わないのか?
例えて言えばこんなことだろうか?皮膚のたるんだ裸を見られるのは恥ずかしい。シミだらけな顔や、荒れ野のような頭皮を見られるのは恥だ。でもそれを隠し、自分をより良く見せる方法について話すのは悪くない。ファッションについて、服装について、ヘアスタイルについて、つまり人は恥を避け、自己愛を満たすテーマについて語るのが好きだ。
そうか。私の「恥と自己愛の精神分析」が売れない理由がわかったぞ。しかし実はこの本ほど「もう手に入らないのか?」と問われる本もない。今回出版してから10年以上たって岩崎学術に100冊ほど限定で刷っていただいた。(このブロクで宣伝させていただいている。)恥の問題は皆心のどこかで捉え、決して自分からは論じない類のテーマなのだ。みな笑われるのが嫌だから・・・。
今回とある心理関係の刊行物で「自己愛」を扱うらしい。企画者は私に恥と自己愛というテーマで振ってくれた。ありがたい事である。私がほそぼそとこのテーマを論じ、ゼミ生の●●くんと××くんはなんとこのテーマを追ってくれている。(先生は嬉しいよ。)私もせいぜい「精神科関係の恥といえば岡野である」と紛らわしい言い方をされないように気をつけながら、このテーマについて考えたい。(例によって一週間くらいか?)

2010年6月7日月曜日

PESとバランスシートという考え方(チビの後ずさり)

週末は精神分析学会の運営委員会三昧。いろいろ考えることがあった。なにか「●床心●士」の資格が「心●士」になる可能性が高まっているとか。その動きの中心にある先生方の話だから、そうなのだろう。一体どうなってしまうのだろう?学生は一生懸命勉強しているのだが・・・・。
☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 
 
ところでBPDと医原性の問題は、このブログに頼ることはやめて、「あとは自分でやる」ことにした。今日は私のこだわりのテーマに戻る。PES(快感査定システム)である。これと「解離」のテーマを交互にやらせていただく。
PESについては実は懸案がある。それは27年前に書いた原稿に戻ることだ。1983年の秋に書き始めた原稿を、土居健郎先生に見せて、「スルー」されてしまった。しかしこのテーマについて資料もないままに一生懸命に考えていたのもこの時期である。手描きでかなりなお下読みにくい原稿の縮刷コピーを、この27年間持っているが、とても開いて読む気になれない。
しかしそのPESについての考えを、最近になって文字にすることがあった。「忘れる技術」(創元社、2006)である。もともと注文を受けて書き下ろした本で、私の他の本と同じように売れなかったが、そこに「心のバランスシート」というアイデアを出した。「心の側から見た、忘れられないわけ」という章においてである。
「これは私たちの頭の中に備わっている認知プロセスを図式化したもので、人が何事かを忘れられ無くなっている状態の、少なくとも問題の一部を説明することができるのです。私たちの損得勘定は、心のバランスシートによって、常に自動的に計算されているのです。」
として、例えばAさんに対する心のバランスシートを考えた。借方の欄には、Aさんに与えた危害や、Aさんから受けた恩恵が入る。貸方の方には、Aさんから被った被害、Aさんに与えている恩恵が入る。これが計算されて、「Aさんに対する気持ち」のあり方を決定する。つまりAさんに対する恨み、後ろめたさ、仕返しをしたい気分などは貸借対照表のバランスと考えることができよう。
おそらくこの起源は、動物としての私達の来歴にある。自分に害を及ぼしてきた相手を自動的に察知して避ける、という傾向である。これが適切にできる個体はそれだけ生存の確率が高くなる。そうか,我が家の犬チビが私の視線を避け、近づくと後ずさりするのには、それなりの理由があったのだ。

2010年6月5日土曜日

もうまとめにかかっている?

これまでの復習をしよう。<実は最後の「まとめ」の部分をこうやって執筆してしまおうとしている。原稿用紙20枚程度ということなので、もう量的にはきつくなったので、そろそろまとめなくてはならない。しかしたった一週間ブログで適当に書いただけである。こんなもんでいいのだろうか? まあいいか。>
BPDの医原性は重要なテーマである。ちょうど一昔前、「ヒステリー」という診断が侮蔑的な意味で用いられたように、現在ではBPDが治療者の間で「厄介者」のように扱われる傾向にある。「あの人はボーダーだよね」というと、たいてい極端な感情表現や行動化、自傷行為のために扱いが難しいケースをさすのである。すなわち治療者の側の主観が非常に大きくBPDの診断や理解には影響を与えているということである。そしてそれはBPDを人工的に作ってしまったり、その症状を悪化させたりという問題を生んでいたというわけである。
さてこのBPDの医原性の問題について、私は3つに分けて論じたことになる。一つ目は、患者の側の振る舞いを、操作的と決め付け、だからボーダーだと決めつけてしまう場合。もう一つはBPDの治療者が、その治療技法ゆえにBPDとしての傾向を引き出す場合。そして最後に、誤診により解離性障害などからBPDが生まれてしまう場合であった。
でもこうやってまとめてみると、結局BPDの医原性とは、「その概念があること」そのもの、とも言えるかもしれない。半世紀前までは、BPDなどに一般の臨床家は関心を払わなかったから、当然そんな診断もつけなかった。(概念そのものは、1950年代にはすでにあった。)しかしこの概念が広く知られるようになり、それが疾患概念として興味深く、また実際のケースがセンセーショナルな場合が少なくないことで、「この人もそうかもしれない、あの人も・・・・・」と臨床家たちがケースを探し始めた。するとちょっと感情表現が大きかったり、治療者側に注文をつけたり、という人たちはみなBPDに見えるようになったというのが現状であろう。
しかし同時に私はまったく別のことも考えている。それはいったんBPDの病理性を除外するとしたら、BPD的な振る舞いは、私たち人間の本性に存在するのだ、と。最初に述べた「ボーダーライン反応」とは人が「自分は取るに足らない存在ではないか? 生きていてもしょうがないのではないか?」という恐ろしい、普段は否認している考えに一瞬思い至り、次の瞬間にそれを暴力的に振り払う反応であり、その考えとは実はおそらくすべての私たちが心のどこかに抱えている暗闇であろう、ということだ。BPDの医原性を考えることが、「BPDは作られてしまう」事への警鐘だとすれば、それを鳴らすことは私たちがみなボーダーライン的な心性を可能性として秘めていることへの防衛や否認の試みとも読み取れるのである。<しかしこんな突き放したようなまとめは、果たしてアリなのだろうか?>

2010年6月4日金曜日

どうして人は化粧を・・・・・

突然だが、どうして人は(というか女性は)化粧をするのだろう? あるいはどうして化粧が許されるのだろう? インターネットの時代になり、特に最近はスターたちがすっぴんの姿を晒しているそうであるが、それを時々目にすると、普段の化粧をしている姿とあまりに違う。女性の外見とは非常に重要な意味を持つ。月並みな言い方だが、「どっちを信じていいかわからない」状態になる。すっぴんをさらす人は、(というより化粧をする人は)二つの顔を世間にさらすことをどのように感じるのだろう?
それに比べると男性の場合は、事情はかなり違う。男性の外見は、言わばどうでもいいのである。というより自分の見かけはどうでもいいという扱いをしている人々が多い。地下鉄にのっていると、つかれた顔をした中年のサラリーマンに出会う。彼らは若い頃はぴかぴかに光っていたのだろう。しかし時間は彼らの容貌を変えていく。何をどういじったってどうしようもなくなる。平板な顔をしている東洋人の場合はなおさらだ。特に頭髪は悩みの種だ。顔のシミもまた困りものである。しかし女性と違い、男性の彼らにそれらを自然にカバーする手立てはない。
基本的に常識に欠ける私は、この歳になっても新しいことを学ぶ毎日であるが、最近「女性のすっぴんは失礼」、という考え方があるのを知った。メイクをするのは礼儀であり、ちょうどきちんと服装をするように、常識的な身じまいであるというのだ。これってすごく便利である。化粧は自らの見苦しさを隠すものではなく、「決まりだから」「礼儀だから」行うものとなるのだ。
提案:国の法律で、男性はすべて、生え際の後退が始まったら、カツラの着用を義務付ける。薄毛を人目に曝すのは、失礼であるという常識をつくる。ちょうど昔の宮廷の音楽家のように、それぞれカツラを誂えて、「仕方なく」着用する。義務だから。これって多くの男性にとって福音かもしれない。
 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
冗談はさておき、本題である。BPDが医原性に生じる、おそらく最大の原因の一つは、誤診である。特に解離性障害がBPDに間違われることは非常に多い。私が会う機会のある解離性障害の方は、過去に一度や二度はBPDの診断を受けている。その中には実際にBPDにも該当すると考えられる方もいる。しかし大概において、解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害、以下DIDとする。)の方は、BPDとはまったく異なるメンタリティを有する。そこでDIDに関して「見る目のない」治療者は医原性にBPDを作り上げるという現象が生じる。<ただしこれは誤診、ということだから、実は医原性のBPDというテーマからは正式には外れる。このことは書きながら気がついた。まあ、もう少し続けよう。>
まず事実から注目しよう。DIDとBPDには共通する症状ないしは問題がある。Marmer/Finkは両者の共通点として、 アイデンティティの障害、不安定な情動コントロール、自己破壊的行動、衝動統御の問題、対人関係上の障害を挙げている(Marmer SS, Fink D 1994 Dec;17(4):743-71.)。これほど類似点があるのだから、その成因には共通部分もあるだろうし、両者が合併することも多い。実際 DIDとBPD が共存するケースについては、米国では少し前から報告されている。少し古い統計では、DIDの患者の35~71%が、BPDの基準を満たすという。(Gleaves, D. H. (1996.Psychological Bulletin. 120, 42-59.)
しかし両者にはかなり大きな違いがある。とくに解離野機制の用い方については、DIDはそれが前面に現れているのに対して、BPDはその症状や防衛の一部を占めるに過ぎない。Marmer やFink DはこれをBPDは一時的に「ローテクlow-techな解離」を用いるのに対して、DIDは極めて精巧な解離の機制を用いる、と表現している。(Marmer SS, Fink D.:Rethinking the comparison of borderline personality disorder and multiple personality disorder. Psychiatr Clin North Am. 1994 Dec;17(4):743-71.)
文献的な検討はさらに続けることもできるが、私はDID→BPDへの誤診にはさらに治療者側の感情的な反応という問題があり、これが一番大きいのではないかと思う。どういうことか。それはDIDの患者さんの対処を重荷に感じ、当惑した治療者が、この論考の冒頭にあるような、「患者の側の抵抗や操作的な態度」を、BPDの診断の根拠とする可能性である。ある患者さんは心理療法の終わり際に人格交替を起こし、子供の人格になってしまった。そして心理療法家はそれを介抱する必要に迫られ、そのために次の患者さんに待ってもらう必要が生じた。療法家はこれを患者さんの側の行動化ないしは依存欲求の表現と理解し、患者さんの振る舞いを「ボーダーライン的」とした。しかし面接中の人格交代は。DIDの治療ではしばしば起きることである。
このように医原的に生じたBPDの診断は、実はこの一連の文の最初の方で論じたBPDの患者の医原的な成立の仕方と類似していることは明らかであろう。

2010年6月3日木曜日

BPDの病理が治療によりつくられ、あるいは助長されるという考え方は、そのほかのエキスパートからも聞かれる。おそらくBPDの治療において最大の貢献をした一人といわれる米国のLinehan, M(いわゆるDBTの創始者)も、そのテキストの中で次のように述べていると報告される。「中傷するような解釈を与えたり、患者の助けを求める叫びを無視したり、感情の爆発や自殺傾向に対して特別の注意を与えたり入院治療を提供したりすることで思いがけずも患者に報酬を与えてしまい、自分を評価してくれなかった家族環境に患者を引き戻してしまうこと」は医原病を生むというのである(Linehan, M. M. 1995: Understanding Borderline Personality Disorder: The Dialectic Approach program manuel. New York: Guilford Pressマーシャ・M. リネハン著, 大野裕, 阿佐美雅弘ほか訳:境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法―DBTによるBPDの治療. 誠信書房, 2007). Linehan, M. M. 1993:. Skills Training Manual For Treatment of Borderline Personality Disorder. New York Guilford Press. マーシャ・M. リネハン (著), 小野 和哉 (訳)弁証法的行動療法実践マニュアル―境界性パーソナリティ障害への新しいアプローチ 金剛出版, 2007.)。
ちなみにこのようにいくつかの治療者の言い分を列挙していくと、ひとつのことに気がつく。自分の治療法を提唱する場合、ほかの治療法を批判するというのは常套手段だが、そうなると必然的に「ほかの治療法で扱ったBPDの患者さんは悪くなる。これはiatrogenic なケースである。」という議論になる。これってある意味では当たり前のことかもしれない。これを書きながらそのことに今気がついた。「医原性のBPD」というテーマは、実はその意味でもビミョーなテーマなのだ。私が特にそのことを感じたのは、このLinehan の、「感情の爆発や自殺傾向にたいして特別の注意を与えたり入院を提供したりすることで思いがけず報酬を与えるべからず」というところである。その前の「患者さんを中傷すべからず。助けの叫びに耳を傾けよ。」はもちろんよくわかる。しかし「自殺願望に特別耳を傾けることはよくない。(そうすると医原性にBPDを作ってしまう)」は、少し極端だと思う。
もちろんLinehan が、「自殺願望を無視せよ」、と言っているわけではない。彼女はむしろ「自殺願望を持つ患者さんは、それについていやというほど話すように促せ」、ということを言っているのも知っている。「もうそれについて話すことはたくさんだ、と思うほどに話させよ、そうしたらもう話したり考えたりするのもいやになるだろう」というわけだ。Linehan の著作には、彼女の感性ならではの治療的な洞察が含まれるが、それでもこの「ボーダーさんを甘やかしてはならない。」とでも言いたげな主張にはちょっとタカピーな態度が伺える。彼女の持つ独特の医原(違った、威厳)や自己愛的な振る舞いとどうもつながってしまうのだ。まあこう言ってしまうと批判めくが、DBTの自殺願望をめぐる扱いの仕方を、どのような形で患者自身にvalidating に体験されるものにするかについては、実は非常に難しい問題が含まれるということを言いたいのである。(もっと言えば、アメリカで生まれ、アメリカではやったDBTを、ポンと輸入してそのまま使えるのは無理だ、ということにもなる。)
話題が少しそれたが、医原性の問題は自分自身で考えた方がいいような気がしてきた。<結局それが言いたいのか!>

2010年6月2日水曜日

それでは Fonagy,Bateman 先生の考えは?

ここでFonagy, Bateman 著の「メンタライゼーション」のテキストについて読んでみよう。そこで Fonagy らは、従来の精神分析的技法がBPDを「作り上げる」とまではいわないけれども、その症状を悪化させるようなファクターと考えている。。例えばメタファーの使用や解釈などは、患者を混乱させ、患者を「心的等価物」や「ごっこモード」を主体としたかかわりに誘い込んでしまい、治療者とのパーソナルな関係が失われるというのだ。だからBPDとの治療では、あまり分析的ではない、もっと普通のかかわり、例えば明確化、精緻化、共感、直面過などの、むしろ通常の会話によるかかわりをむしろ必要とするという(p345)。
ここで心的等価物 mental equivalent やごっこモード pretend mode, ないしは目的論的姿勢というのは、著者らが考えている、BPDの主要な特徴なので、少し見ておきたい。心的等価物とは、例えば治療者とセッションが終わって、実際に見捨てられたような気になってしまうようなこと。それに比べてごっこモードは、自分におきたことが人事(ひとごと)のように思われること。このように考えるとごっこモードと心的等価物は、一見正反対の現象だが、両者は表裏一体といえる。
本来人間は、対人関係において他人に起きたことを自分の中で疑似体験し、また自分の実際の体験を他人でも起きているように想像するという機能を持つ。こうして私たちは人の気持ちを「わかる」のである。例を挙げよう。ある朝、あなたが友達と一緒に登校する。あなたが寒いと感じて、友達に「今朝寒いよね。」という時、自分の「寒い」という体験を、おそらくその友人も体験しているであろうと想像するから、そのような言葉が出る。ところがその友人がむしろ「いや、涼しくて気持ちいよ。」と言ったとして、あなたはそれを意外に感じたとする。そのときはその友人が涼しい、と感じていることを自分自身で想像し、しかる後に自分の「寒い」という実体験との落差を感じて驚くというわけである。つまり自分の体験を人の心の中に読む、他人の体験を自分の心の中に読む、ということがおきているわけで、この両方が機能することにより人の気持ちをわかり、相互の心のこもったコミュニケーションが可能になる。ところが自分の体験を実感できないと、あるいは他人の体験を自分に移すことが出来ないと、それらの体験は、まさに「人事(ひとごと)」になり、彼らのいう「ごっこモード」になってしまうというわけだ。
医原性、という問題とは少しはなれるが、結局 Fonagy 先生たちが行っているのは、BPDにおける「人の心のわからなさ」ということである。しかしこの話からすれば、一種の脳機能の不全というニュアンスもあり、そこには発達障害的なニュアンスが伴うといってもいい。ここで図らずもBPDとアスペルガー障害の関連性が示唆されていることになるが、もちろん両者は類縁疾患とはいえない。ただメンタライゼーションの障害として一方では、アスペルガーが語られ、他方では Fonagy などによりBPDが論じられていることも事実なのである。
さて「医原性」である。彼らは、古典的な精神分析的なやり方では、人の気持ちをわかりにくいという特徴をもつBPDの患者さん達を混乱させてしまうという。分析的な手法は、それが意味を持つためには心の充分な機能を必要としているのであり、BPDに対してそれを行うのは、処理不能なタスクを与えて混乱をさせるだけだ、ということなのであろう。その意味での「医原性」なのであるが、私が昨日まで考えていた内容とはかなり違うことになるだろう。
私の議論は、「ボーダーライン傾向は通常の人間が皆持っているのであり、治療者の分析的な態度はそれをかえって助長しかねない」という意味での「医原性」である。他方Fonagy 先生たちの議論は、「BPDの人は通常の人と異なっており、分析的な態度は彼らを混乱させることで病理を助長する可能性がある」という主張である。後者の方はより理論的であり、患者の認知プロセスに関する議論であるのに対し、私の考えは、情緒レベルでの影響を扱っていることにある。(しまった。また彼らと私を同格のように書いてしまった。)

2010年6月1日火曜日

私はかねてから、正統派の精神分析的な教育を受けた治療者は、結果的に医原性のBPDの生産に加担してしまう傾向があると見ている。この点は、Gunderson や Fonagy の主張に通じている。(まだ彼らの説を詳しくは検討していないが、自分と彼らを同格にするなんて、なんと罪深いのだろう!)そしてそこでしばしば問題となるのが、治療構造の概念である。
精神分析にはいくつかの聖域があるようだ。今ようやく疑問符が投げかけ始められているのが、転移の解釈の至上性であろう。患者の心の無意識的なプロセスの解釈、特に転移の解釈こそが治療的な意味を持つ、という考えだ。もちろん治療的なのはそれに限ったことではない。そのことについてはあまり声高に主張はされなくなってきているように思う。それに比べてその聖域としての扱われ方がより広範であり、その批判をすることが未だに難しいのが、治療構造に関するそれである。「治療構造は場合によっては非治療的になる」という主張は、おそらくどのような進歩的な分析家にとっても容易には受け入れがたいであろう。せいぜい「治療構造が非治療的に働くなら、その治療構造自体がきちんとしたものでないからだ。当たり前ではないか?」でけりがついてしまう可能性がある。もちろん治療構造自体があまりにrigid な場合には、それが非治療的となりうる、という主張を受け入れる治療者は多いであろう。しかしそれよりは治療構造自体があいまいで、しっかり定義されていなかったり、境界が不鮮明だったりすることの弊害に関する主張に比べれば、ほとんど聞かれないのが現状であろう。
治療構造論をライフワークの一つとした故・小此木啓吾先生も生前いってらした。「僕は、治療構造をちゃんと守らないところがあるから、あえてあのような理論を作り、自らを戒めたのだ。」ここに見られるのは、やはり治療構造はきちんと決め、それを順守することが正しい、という議論であろう。しかしこの治療構造の重要さを強調する分だけ、治療構造に「乗ってこない」患者を問題視し、そこに病理性を見出す傾向も強くなる。
治療構造を重視する私達にとって(ついでに自分もその仲間に入れてしまった)一番抵抗があるのは、「例外を設けること」である。あるクライエントが通常の定期的な面接の枠組み以外に現われ、面談を希望する。何か特別の事情があったのであろう。分析的なオリエンテーションを重視する治療者はその意外性、例外性を気にするあまり、その面談を拒否する可能性がある。いくらその治療者にとって、その時に例外的なセッションを提供する時間的な余裕があり、また料金を課することについてクライエントが納得しているとしてもそれを行うことは少ないであろう。このことは精神分析の「身内」である私にはよくわかることだが、精神分析になじみがないクライエントにとってはこのリクエストを拒絶される理由が不明なことが多い。例えばカイロプラクティクスやマッサージに週に一度通っている人を考えよう。彼がジョッギングをして腰を痛めたために、次のセッションまでに一度余計な時間をリクエストしたからといって、時間的に余裕のある治療者がそれを拒絶するすることがあるだろうか?何か特別な理由があるからに違いない。
同じような感覚で余分なセッションをリクエストして断られたクライエントが、分析的な治療者にその理由を尋ねても、たいていは明確な答えが得られないだろう。もちろん「現実にあなたに会う時間的な余裕がないのです。これからずっと午後は面談のスケジュールが詰まっていますから。」というような明確な理由が実際にあったとしたら、それは了解可能だ。しかし治療者が「いや、構造が決められていますから、それを破るのは・・・・・」とだけ伝えて、あとは歯切れの悪い断り方をするとしたら、クライエントの方もますます疑問がわいてきて、さらに明確な答えを期待するかもしれない。その時治療者が「私達にとって治療構造を守ることは非常に重要なのです。治療構造が私たちを守ってもくれるのです…・」といっても何の説明にもなっていない。
しかしその時点で、治療者が本当の理由、例えば「あなたがこうして例外的なセッションをリクエストして、私がそれを受け入れるということで、徐々に私に対する依存欲求が高まり、構造自体が壊されてしまう恐れがあるからです…」という、ある意味では「本当の理由」をどうどうと言えるだけの治療者もあまりいない。それは言っている治療者にもあまり自信が持てない内容であるし、患者さんに「えっそんな事をお考えなんですか?今回だけのつもりですけれど。それに私にはこれ以上セッションを増やすお金もないし・・・・」と言われては身も蓋もないことになることを、治療者自身が知っているのである。(thank God!)他方のクライエントにしてみれば、「今回だけのつもりですけれど」という言葉を本心からいっている可能性がある。それは一回腰をひねったからといって、今後カイロプラクティクスのセッションに定期的に週2回通うつもりはないのと一緒である。こちらの方が自然な発想なのだ。
もちろんこうは言っても治療構造を守るために慎重になる療法家の気持ちは私はよくわかるつもりでる。これらの点について特にナーバスになるべきクライエントさんは実際にいらっしゃるからだ。しかし療法家が同様のリクエストをするクライエントに対してことごとく同じような構えを持ってしまうとしたら問題である。その意図が分からずに気を悪くしたり、治療者とのラポールが逆に揺らいでしまうクライエントが出てもおかしくない。そしてこれが医原性のBPDの問題とも関係してくるのだ。(続く)