2010年5月24日月曜日

よくある疑問

ブログの設定をいじって、シンプルなものにしたら、写真や自己紹介文がどこかに消えてしまったぞ。まあどうでもいいや。
話を続ける。
「すべての行動は、快楽査定システム(PES)を経て行われる、つまりはすべての行動は快楽追求的(苦痛回避的)である」という言い方は、即座にある批判を招く。それは「人間の行動はそれだけではない。何も考えずに反射的にふるまってしまうこともある。」というものだ。また「人間は時には苦痛を招くような行動も選択するではないか。」という批判も多い。私の仮説はかなり前から口にして、結構批判も受けているから、この種の問いには慣れている。そして前者は比較的容易に処理できるが、後者はすこしややこしい。
まず確かに私たちの行動は無反省的 non-reflective に行われることがある。これは「行動」に含めないとするしかない。あえていうならば、一種の反射か。私たちの行動はそれが意図や計算を含む分だけ、大脳皮質の関与を必要とする。例えばコンピューターゲームの、テトリスを考えよう。はじめはブロック図形をどちらの向きに回そうか、どこに収めようか、などとあれこれ考え、大脳皮質を忙しく働かせる。ところが慣れてくると大脳皮質は「青くなって」いく。(つまり光トポグラフィーで見ると、活動が低下している。)つまり行動は、それに慣れてくると、前もってあまりプランせずにその時々の状況に合わせて反射的に行われるようになる。「これをしたらキモチええやろか、得するやろか、」などとPESを働かせなくても済む。無反省的にできるようになったことが、それが思ったような結果を招く限りにおいて、それはPESでいちいち先取り評価を受けなくなる。ただしそうやって一度でも失敗したなら、次回から大脳皮質を働かせて、次なる行動を想像し、PESに諮ってみてOKならそれを再び徐々に自動化させていく。だからこの第一の批判は正しいのだ。PESそれを働かせない行動はちゃんとある(というより離れている行動はおおむねPESをスルーして行われる)ということができる。だから詳しくは「すべての意図的な行動は、PESを経て行われる」と言い直さなければならないのだ。
後者の批判は、それに比べれば少し複雑である。確かに私達は意図的に苦痛を招く行動を行うこともあるようである。たとえばあなたが少し体重を落とすために腹筋を50回やろう、などと決めて、実行する際を考えよう。49回までやり終えて、もうあと一回がとてつもなく苦しくても、私たちはそれをやることがある。そんな時、最後の腹筋運動を行うことを想像してもPESは快楽を少しも予測しないように思えても不思議はない。
そのような時に私たちの脳はどのようなプロセスを経るのか。一つの仮説を示す。あなたは最後の一回の腹筋をやることを想像し、Aという苦痛を予測する。(ここでは不快査定システムもまだあまり区別していないから、このような言い方をしておく。)次に最後の一回をやらないことを想像する。それもまた耐えられない。その量をBとする。そしてすばやくA<BかA>Bかの判断がなされる。最後の一回をあなたが遂行するならば、かならずA<Bが起きているはずなのである。