2010年5月13日木曜日

なぜ「動因の心理学」が快感中枢に関係あるのか?

ここで動因を考えることが、どうして快感中枢の話に結びつくのかについて述べたい。私が20代の医学生のころから、人間の動因について考え始めたのは、非常に単純な発想からであった。哲学書を読んで、などということでは全然なかった。(というより読書はほとんどできていなかった。)日常生活で、「自分はなぜ~をしたいのだろう」、「なぜ~をするんだろう?」ということばかりを考えていたからだ。おそらく心で思っても実行するまでに逡巡することがあまりに多かったからだろう。「気弱な」性格のせいということになるし、衝動的な傾向があまりなかったから、ということにもなる。何かをする前に、「オレって何でこれをしようとしているんだろう?」と考えてばかりいたのだ。
そこで次のような図式が非常に自然なものに思えた。ある事柄について、それをやっている自分を創造する。そしてそれを「是」と判断する。しかる後に実行する・・・・・。心の中でシミュレーションをするのだ。およそ意図的な行動を起こす際に、このプロセスが起きないことはないだろう。そして「是」と判断するのは、一種の快感なのだ。ただし本当の快感ではない。快感の予感であり、しかし単に知的な判断ではない。それは一体どのようなプロセスだろう?
例えば知人宅に呼ばれると、コーヒーにしますか、紅茶にしますか、と聞かれる。味のわからない自分にとっては、どうでもいいことなのだが、それでは話にならないので、私がどちらの味も愛でることができて、どちらの味わいにも愛着とこだわりがあるとする。私はコーヒーを想像の中で口に含んでみて、次に紅茶を味わい、しかる後にどちらかを選ぶ。今日はコーヒーで行きたいな、と。でもそれは脳の中で一体どのようなプロセスが生じることを意味するのだろう?
コーヒーを飲んで快感を味わうというプロセス自体は、非常によくわかる。様々な物質が未来を刺激して、脳に信号を送る。その一部はそれを快感として判断するような脳の部分を興奮させるのだろう。だからそれを「おいしい」と感じる。しかしかつてコーヒーを飲んだという記憶をもとに、「それを飲みたいかどうか」を判断するというプロセスは、はるかに複雑で、わかりにくいように思われる。コーヒーは実際には味わわれていないのに、その時に味わうであろう快感の大きさを、紅茶を飲んだときのそれと比べる。しかしあくまでも、それは実際の快感ではないのである。
私は哲学も心理学も何も知らなかったが、この問題について考えるだけで時間が過ぎてしまうのを感じた。それを考える過程で、心というものに分け入っているというちょっとした興奮も味わったのである。
これに関連した現象でもうひとつ興味深いものがあることはすぐに思いついた。「期待」と「失望」の問題だ。コーヒーを頼んで、これから出てくるであろうものを期待している時に、ホストにこういわれたとする。「ごめんなさい。ちょうどコーヒー豆をきらしていることを忘れていました・・・・・」 私はそこで失望する。しかしこのプロセスは一体なんだろう? 言葉にすれば実に簡単だ。私は期待を裏切られて失望をした。しかし実際にはもともと何も起きていなかったはずなのだ。肝心のコーヒーは一切登場していない。純粋に精神的なプロセスということになる。それで人はここまで期待したり、失望したりする ・・・・・・。
ここで興味深いことは、コーヒーがもうすぐ来る、という事実認定は、やはりそれ自身が快感である、ということなのであろう。もちろん実際にコーヒーを味わっているときの快感とは明らかに違う。でもこの想像による体験もある種の快感であるには違いない。コーヒーを味わっている自分は、きっと少しだけうっとりした顔をしているに違いない。コーヒーが出てこない、とわかるときの失望は、それに比べて明らかに不快であろう。しかしこちらの不快は、それと比較すべき現実の不快感はない。コーヒーの味とちょうど逆の体験をして不快になる、という物質(「逆コーヒー」???)など考えられないからだ。うーん、よくわからない。不思議だ、と、私はこんなことばかりを考えている青年であった。
ちなみに後に精神科医になり、神経伝達物質について学んでいく際に、非常に興味深い話を聞いて、私はますます混乱してしまう。コーヒーを飲める、とわかったときには、脳のある部分でドーパミンが放出される。ではドーパミンは快感物質なのだろうか? でも実際にコーヒーを飲んでいるときには、ドーパミンが出るというわけではない。快感自身は他の伝達物質に関係しているらしい。快感イコールドーパミン、という図式はあまりに単純だが、肝心のドーパミンは、実は私が一番不思議に思い、興味を持っていた期待と失望という、純粋に精神的なプロセスにかかわっていたのである。