2010年5月7日金曜日

首相になることは,裸になること

鳩山さんの言動がいちいち報道されてその迷走ぶりが物議をかもしているが、去年は麻生さんが(別の種類のことで問題視されていたとはいえ)同じような状況にあった。一人の人間としていろいろ迷い,悩むのは自然であるが,一国の首相ともなると,「自然」ではすまなくなる。常に高度の判断が要求されるし,言動のブレも一定以上になると問題視される。首相になるとは(少なくとも日本の場合は)その人が裸にされて,判断能力,決断能力の有無が明白になるということだろう。私はこれほど人の行動を知るのにいい素材はないと思っている。
ついでに言えば,アメリカの大統領選に至る道程は,公開での討論の積み重ねで,そこで理論的なブレや矛盾はすぐに相手につかれて負けてしまう。大統領にまで上り詰める人間は、言葉を使って自分の意見をまとめ,それをあらゆる方向からのチャレンジに対して防衛することに長けた人間ということになる。鳩山さんとオバマさんのこれまでの短い会見では,そのような駆け引きのプロ中のプロと,およそそのような訓練を経ずに一国のリーダーになった人(鳩山さん)との会見であり,大人と赤ん坊との違いに似たような,鳩山さん側の「お話にならなさ」を感じる。
日本で首相になることは,言わば裸にされて恥をかかされる体験になっているわけだが,よくしたもので会見に負けた人間が全く無価値かといえばそうではない。国と国の駆け引きは,その国の経済力,軍事力,生産性,文化的な価値の総合としての国同士の力の関係で決まる。鳩山さんがオバマさんに圧倒されて,とんでもない約束をしても国会で批准されないだけであるし,そんなことはオバマさんも知っているだろう。それよりもこの種の国のリーダーはある意味では無害で,他の国を挑発したり,怒りを買ったりはしないということは重要である。歴史的な大きな衝突が小さな小競り合いを通じてたがいのプライドを傷付け合う形で発展してきたのを見ると,鳩山さんの「友愛精神」はその比較的平和な国際社会では意外と価値があると考えるべきではないか?もっともそれを見込んで彼が「友愛」や「命を守ること」を唱え続けてきたとも思えないが。