2017年8月22日火曜日

自由意思は存在するか?

自由意思は存在するのか?

「頑張る」のは自由意思か?
私には年に一度、憂鬱な体験がある。目の前にいる中年の女性に、「頑張りが足りない、もっともっと!」とせかされ、全力を尽くす。しかしその女性は私が十分頑張っていないのではないかと疑いの眼差して、「もう一度行きますか?」などという。その女性の叱咤激励に少しでも応えようと、いやいやながらもう一度トライするが、結果は先ほどより悪い。そして「このところどんどん下がってますねえ」、などと言いたげなその女性の前から、気まずい思いでそそくさと退散するのだ。
そう、年に一回の健康診断の、肺活量の検査である。でも今年は少し変わった体験をした。「もっと吐けますよ、もう少し頑張って!」と必死の形相で私を叱咤する彼女を前に、「ひょっとしたらもう少し行けるのかな。」と思ったのだ。私は毎年ここでもうあきらめる時点で、ダメもとで喉を振り絞ってみた。すると意外にもちょっと余計に息がの度を通過するのを感じた。その女性の検査技師は満足そうに、「おや、去年の数値よりちょっと上がりましたよ。ここ数年で一番いいですね」と言い、「じゃ、今日はこの一回でいきましょう。」と許してくれたのである。(ちなみに聖○○病院の健康診断に何年も行っているので、コンピューターにはここ数年の私の情けない肺活量が登録されているわけだ。)
私は日ごろの臨床で、患者や子供や生徒に向かって「努力が足りない!」「もっと頑張れ」「まだまだ甘えがある」と言い続ける親や教師をたしなめる役割である。「彼はがんばれないから苦しいんですよ。そこを分かってあげてください。」というのだ。ところがその私が今日は頑張って結果を出し、検査技師にどや顔をさせてしまったのだ。「被験者が本気をだしてやっと肺活量は正確に測れるんだわ。彼はこの数年頑張りが足りなかったのよ。」私は今から来年を危惧している。おそらく来年はまた頑張りが足りなくて、今年の新記録をはるかに下回り、ひょっとしたらあの検査を3回繰り返されるか、あるいは根性のない還暦過ぎの男性として扱われるか、なのだ・・・・。
さてこのエピソードから人間の自由意思の話に持っていくのは飛躍かもしれないが、あるヒントが隠されている気がする。すくなくともこのエピソードは、いわゆる暗示やプラセボ効果と関連した問題が絡んでいると言えるだろう。人が全力を注いで何かをする場合、その「全力」には結構幅がある。人は自分の「全力」の「全力具合」をあまりわかっていないものなのだ。自らのバッティングを向上させるために全力を尽くそうと決めた高校球児がいたとしよう。彼は毎日に時間はバットを振る。しかし週に一日、日曜日は休息しよう、と思うかもしれない。すると「その昔、長嶋茂雄選手は盆も正月もなく一日バットを振り続けた」というエピソードを聞き(ちなみにこれは私が想像した話にすぎない)、この球児は自分が思っていた全力は、実は全力ではなかったことを知り、「もう少し全力で」(矛盾した表現である)素振りに専心するだろう。彼の全力は、まだ全力ではなかったということになる。人は「全力」をふるっている時も、様々な不安から、例えば「自分の体がそのために崩壊するのではないか」という予感から力をセーブするものだ。400メートル走の選手が全力で走ったとしても、彼が100メートル走の際に発揮する「全力」には及ばないはずだ。そんなことをしたら200メートルくらい行ったところで彼は力尽きてしまうだろう。おそらくこれ以上の力を出したら骨折してしまうのではないか、死んでしまうのではないか、という不安から、人は無意識的に自分に抑制を、ブレーキをかけているのであろう。するとたとえば、自分ならこれ以上は挑戦しないであろうと思えるレベルを超えていくライバルを見て、ふと自分もそのブレーキを緩めることになるのかもしれない。オリンピックの水泳の記録などを見ると、どうして各大会ことに世界新記録が塗り替えられていくのかが分からない。しかしここにはひょっとしたら「全力」と思っているレベルを、ひょっとしたら越えられるのではないかという新たな発想が、仲間の奮起により得られるからではないか? 人類の体力がそれほど右肩上がりに上昇するようには思えないからだ。
同様のことは、プラセボ効果や暗示によっても得られる可能性がある。日本の4人の若手の陸上の有望選手を考える。もしいきなり2人が100メートル9秒台を出したら、つられてもう一人くらい9秒台を出すのではないか? あるいは彼らに暗示をかけて、「あなたは今特別な薬を飲みました。これは100メートルを絶対に10秒未満で走ることが出来る錠剤です。実はこれを飲んで9秒台で走れなかった人はいません。」と伝えたとしよう。4人のうち信じ込みやすい一人くらいは9秒台を出せたりして。
ちなみに「全力を出す」ことへのブレーキは、おそらく生物が自己防衛として早くから身に着けているのではないだろうか。私事で恐縮だが、私は非常に体調を崩した時期があった。普段だったら自然にできることが、異様に体がしんどくてできない。たとえばベランダに積もった落ち葉を掃き掃除する、ということが出来ないのだ。そこで「できないと思い込んでいるからだけではないだろうか?」と考え、普段だったら自分がするような動作を起こしてみた。箒を持って、実際に庭を掃いてみたのである。私はそれを12分は継続することが出来た。その時私は「そうか、やはりやろうと思ったらやれたのだ!」と考えたのである。しかし数分後に驚くべきことが体に起きた。激しい疲労が襲ってきて、それこそ立ち上がることすらできずにそこにうずくまってしまったのである。「庭を掃くことすらできない」という私の認識は、それをもししたらすぐにでも動けなってしまうという予感や恐怖によりバランスがとられた結果だったのだ。そして事実私はその時に「庭を掃くことすらできない」状態だったというわけである。
「頑張るとはどういうことか?」「何が全力か」という話に戻る。私は、このテーマは認知的な問題に還元できると思う。人は頑張り、努力するとき、ある種の不安との綱引きを行っている。自分の体力や精神力の発揮できる量を示すダイヤルがあるとしよう。時計回りにいっぱいまで回すと、それが全力だ。するとそれ以上ボリュームを上げると体が崩壊し、あるいは倒れたり死んでしまったりするのではないかという不安は、ダイヤルを反時計回りに押し戻そうとしている力となる。その反時計回りの力はそれ以外にも暗示により、その時の不安の強さにより、彼女が応援していることにより、あるいは何かの偶発的な力により、その時々で異なるのだ。その結果として人はこれ以上はもうボリュームを上げられないと判断するところで「よし、これが全力だ。」と認識する。この認識は大体において正確なのだ。しかし反時計回りの抑制の力にはその時々でブレが生じ、その認識を狂わすことがある。そしてここでダイヤルはいっぱいに回しているな、と思うときにももう少し力を入れると、ダイヤルがもう少し時計回りに回せてしまう場合があるのだ。こうして見かけ上の記録は伸び、肺活量も偶然あがったりする(先日の私のように)。でも私はこの体験から次のような教訓を得たことになるだろうか?
「もうこれ以上はダメだ、と思うときに、もうひと頑張りしてごらん。きっと記録は伸びるよ。」
私は十中八九これはうまくいかないと思う。今日は私が根性を出した、というよりは「たまたま」だったのである。私の認識が少しくるっていたというわけだ。あるいは生徒が、子供が珍しく登校できたり、試験でいい成績を収めたとする。教師や親はこう言うだろう。「ほらね、頑張ればできるじゃない。」あるいは好記録を出しスポーツ選手なら、「今日は本来の自分の力が出せた」と言うかもしれない。しかし私は誓ってもいいのだが、今日の達成は次のような使い方をされてしまうのである。「お前さんが本気を出せば学校に行けることはわかっているよ。また怠けモードに入ったんだね。」あたかも「頑張る」、「全力を出す」のは自由意思の産物であり、人は頑張らないという意図的な選択をしがちであるかのようなロジックである。しかし、いつ自分がどこまでできるかは、実はざまざまなファクターにより重層決定されているのである。

2017年8月21日月曜日

第3章 解釈を問い直す(2)②

以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者さん本人よりは治療者が気づきやすいような、患者さん自身の問題を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者さんの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者さんの耳には直接入っていない噂話かもしれない。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。
しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者さん自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど広義の解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字が患者さんにとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それが患者さんにとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも示唆されることだ。

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具体例とその解説

ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたい。
ある30代後半の独身女性Aさんは、両親と同居中である。Aさんはパート勤務で家計に貢献している。3歳下の妹はすでに結婚して家を出ている。Aさんはここ2年ほど抑うつ気分にとらわれ、心理療法を受けている。Aさんには結婚も考えている親しい男性がいるが、両親にはそれを話せないでいる。あるセッションでAさんは治療者に次のように話す。
「最近父親が会社を定年になって家にいることが多いので、母への言葉の暴力がすごいんです。何から何まで言いがかりをつけ、時には手も出るんです。私が盾になって母を守ってあげないと、彼女はダメになってしまうんです。」治療者は「お母さんを心配なさる気持ちはわかります。お母さんはあなたがいつまでも家にいることでお父さんから守られるという安心感があるのですね。」治療者のその言葉に、Aさんは頷き、自分の話を理解してもらっていると感じる。
治療者は続けて次のようなことを言う。「実はAさんのお話を聞いていて、一つだけよくわからないことがあります。Aさんは、結婚も含めてご自分の人生についてはどうお考えになっていますか?」と問うと、Aさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかける。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言う。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として釈然としないと感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと考えた。

この例では、治療者はAさんが母親を心配して家を離れない理由については、理解できた気がしたし、それを伝えた。しかしAさんが「私の人生はどうでもいい」ともとれる言い方をした時から、彼女の話が見えにくくなり、しっくりこないと感じられるようになったのである。
私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるだろう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付く。上の例では「Aさんはこれからも母親の面倒を見続けようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのではないだろうか?」「Aさんは私の問いかけに対して非難されたかのような口調で答えていることに、自分でも気が付いていないのではないか?」などである。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には感じられたのだ。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれる。それを私は広義の解釈と考えるのであるが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化され、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない場合も含まれるという点が特徴といえよう。

患者さんの連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けている。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(その個人の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているであろう。それはたとえばある患者の見た一つの夢についての解釈が、それを聞いた分析家の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情である。また患者さんの夢についての治療者の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含まれる可能性がある。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではない。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか? お母さんを父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への言及という本来の解釈ということになるだろう。ここで患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要であろう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからだ。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのだ。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのである。

さてこのような解釈を仮に技法と考え、その「習得」を試みるにはどうしたらいいであろうか? 私の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否が依拠しているというべきだと考える。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、患者の有するたくさんのパターンを認識することだろう。しかしそのうえで虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるだろう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるだろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのである。

2017年8月20日日曜日

第3章 解釈を問い直す (2)① いかに学びなおしたか? ①

1.技法の概要
解釈とは、精神分析事典によれば「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)と定義される。ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考える。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「suggestion 示唆(ないし暗示)」と言い表したさまざまな治療的要素とは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009) ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトにより退けられたのかについて、少し振り返っておこう。 本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。
「心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。」
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべき根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針からそれるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日的な立場からも、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしそれと同時に示唆を排除する立場を維持することは、治療者の介入に対して大きな制限を加えることになりかねないだろう。実際の臨床場面では、治療者が狭義の解釈以外のかかわりを一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992)というホフマンの提言もその意味で頷ける。
もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような視点が有用と考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いていますが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。目の前の患者さんの背中に文字が書いてあり、患者さんはそれを直接目にすることができないとする。そして治療者はその患者さんの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者さんが部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?

もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さに通じていると言えるだろう。ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味でである。患者もすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。患者はそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者さんとの共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

精神分析をいかに学びなおしたか? ①


脱学習をするのは自分ひとりである

先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方がひとつのテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土曜日の午後、日曜日の午前中にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、と言うことができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからの電話を受ける基準について、講師Aの言うことと、講師Cのいうことが違っていた。講義を聞く側としては混乱してしまった。」
実はこの講師Cは私のことで、講師Aはある精神療法の世界の大御所です。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Dさんとしましょう)が問題にされたのです。おそらく私のことだから、電話を取る基準として私自身が用いている甘くいい加減な基準を話し、A先生はその逆だったのだろうと想像します。
私はDさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、精神療法について考える上で非常に重要な点を私たちに考えさせてくれると思います。それがこの脱学習というテーマです。
私はこの世界では、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が一致していること自体がむしろ少ないのではないでしょうか?考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その両方ごとに正反対ということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)と言った具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。あえて、精神療法を「精神分析的」と「それ以外」、と言う乱暴なわけ方をすると、皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことは、どこかで正反対の二つのうちのどちらかを混乱せずに無事に選んでいらっしゃるわけです。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。でもそこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決めるときが来ます。頼りになる先輩はもはや確信を持って答えを出してくれないでしょう。あるいはあなたがXかな、と思っていたことについて、「絶対Yだ!」と言われてしまい、ついていけないと思うかもしれません。結局どこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。


2017年8月19日土曜日

「ほめる」を三分の二にダイエット

私たちにとっての「ほめる」
はじめに

「ほめる」とは非常に挑戦的なテーマである。心理療法の世界ではある意味でタブー視されていると言ってもいいだろう。精神分析においては、その究極の目的は患者が自己洞察を獲得することと考えられる傾向にあり、ほめることは、それとはまさに対極的ともいえるかかわりである。その背後には、洞察を得ることには苦痛を伴い、一種の剥奪の状況下においてはじめて達成されるという前提がある。
一般に学問としての心理療法には独特のストイシズムが存在する。安易な発想や介入は回避されなくてはならない。人(患者、来談者、バイジー、生徒など)をほめることは一種の「甘やかし」であり、その場しのぎで刹那的、表層的な介入でしかなく、そこに真に学問的な価値はないとみなされる。
しかし目に見える結果を追及する世界では、かなり異なる考え方が支配的である。かつてマラソンの小出監督は、「欠点を探すんじゃなくていいところだけ見て、お前、すごいなと言ってやればいい」と語っている(1)。いかに選手のモティベーションを高めるかが重要視される世界では、「ほめる」ことはそのための重要な要素の一つとみなされる。実際に私たちがあることを学習したり訓練を受けている場合、そこでの努力や成果を教師や指導者からほめられたいと願うことはあまりに自然であろう。「私はほめられることが嫌である」という人はかなり例外的であり、それまでの人生で尋常でないトラウマを経てきているに違いない。

純粋なる「ほめたい願望」

まずは私自身の体験から出発したい。私は基本的にはある行為や作品に心を動かされた際には、その気持ちをその行為者や作者に伝えたくなる。たとえばストリートミュージシャンの演奏に感動したら、「すばらしかったですよ」と言いたくなるし、大き目のコインを彼の楽器ケースに投げ入れたくなる。私はこの素朴な気持ちを、純粋な「ほめたい願望」と呼ぶことにしたい。そしてこれは程度の差こそあれ、私たち誰しもがもつものと想定する。この純粋なる「ほめたい願望」には愛他性(利他性)が関与している可能性がある。愛他性とは他人の幸福や利益を第一の目的とした行動や考え方である。そのプロトタイプは母親の子供に向ける気持ちに見出されよう。ある人の行為や作品に感動を覚えた場合に、それを当人に伝えることが相手の喜びや満足感をもたらすとしたら、それは比較的自然な愛他性の表現とも考えられる。

以上純粋なる「ほめたい願望」について考えたが、これが発揮されない場合は数多くあろう。その理由の最大のものは羨望である。例えばある画家の絵画があなたの感動を呼ぶとする。しかしあなた自身も画家で、またその画家はあなたにとってライバル関係にあるという状況を考えよう。あなたはそのライバルの絵画の出来を素直に賞賛する気持ちにはたしてなるだろうか? またもしその画家との関係が最初から敵対的であるならば、「ほめる」などという願望は最初から起きない可能性ももちろんある。

技法ないしは方便としてのほめること

ところで「ほめたい願望」はある種の感動により引き起こされるわけであるが、刺激の多い現代社会において私たちが心から感動する機会は少なくなってきている可能性がある。それでも私たちは私たちが関わる生徒や患者をほめるということを止めないであろう。彼らの自己愛を支え、努力を続けるモティベーションを維持しなくてはならないからだ。ここに教育的な配慮から「ほめる」という必要が生じてくる。さらには社会生活を営む上では、さらに表面的で儀礼的に「ほめる」ことが多い。いわば純粋な願望に従うのではなく、技法として、方便としての「ほめる」である。もちろんこれを否定し去ることは出来ない。ただし次の様な例を考えていただきたい。

Aさん(20歳代、男性)は、小学校3年の体験を今でも明確に覚えているという。

(中略)
Aさんはこれを心の傷として今でも抱えているという。

これは教師の行為が純粋な「ほめたい願望」から出た場合には起こり得なかった悲劇だろう。

さてここまでは純粋な「ほめたい願望」と技法としてほめることをもっぱら対置的に論じてきたが、ここで両者を一概に区別することもできないという点にも触れておきたい。人のパフォーマンスや作品に私たちが感動を覚えない場合、それをパフォーマンスや作品のせいばかりに出来るだろうか? 当然そうではないはずだ。考えてもみよう。作品の評価は、それを鑑賞する人がどのような好みを持つかにより大きく異なるであろうし、またその人がどの程度関心を持ってその作品を鑑賞するかにもよる。人は基本的には自己愛的であり、自分自身の達成にしか注意が行き届かないことが多い。しかし日頃私たちが当たり前のように受け取っている事柄には、私たちがひとたび注意を向けることでようやくその価値が感じられることが沢山ある。妻に家事の多くをしてもらっている夫は、少し想像力を働かせばいかにそれが大変なことがわかる。いつも家を清潔に保ち、夕食時には食卓に食事が並んでいるということに驚き、感動しないのは、それに慣れてしまい、それを提供する側の体験を想像しなくなっているからなのだ。このように純粋な「ほめたい願望」と技法としてのほめることは、一見対立的であっても、実は人間の想像力というファクターを介して絶妙につながっているということを付け加えておきたいわけだ。

親が子をほめる

以上は「ほめる」についての総論であったが、親として子をほめる場合は、そこに同一化や自己愛的な思い入れが関与する。たとえば私たちは、どこかの乳児がおぼつかない足取りで一歩を踏み出す様子を公園で目にしても、特別に感動することはないだろう。ところがそれがわが子の初めての一歩だとなると、全く違う体験になる。子供がハイハイしていた時は、親は自分も心の中でハイハイしているのだ。そして立ち上がり、一歩踏み出した時の「やった!」感を親も体験している。それはすばらしい成長の証であり、思わずほめてあげたくなるだろう。そしてこの同一化には自己愛的な思い入れが絡んでいる可能性がある。「さすがわが子だ」という部分である。

実はこの自己愛的な思い入れは、「ほめる」に大きく関係する。分かりやすい例に移し変えよう。わが子が漢字のドリルで百点を取って持ち帰った場合を想定する。親は子供のうれしそうな顔を見て、子供に成り代わって喜ぶだろう。こちらが同一化による「ほめる」である。ところが親の頭に浮かぶ様々な考えの中には、「自分の遺伝子のおかげだ」なども含まれているに違いない。もし血が繋がっていなくても、「自分の教え方がよかったからだ」「自分の育て方がよかったからだ」「自分が教育によい環境を作ったからだ」など、いろいろと理屈付けをする。結局親はわが子をほめながら、同時に自分をほめているという部分がある。こちらが自己愛的な思い入れということになる。

この後者が「ほめる」にどう影響されるかは、次のような思考実験をすればよい。子供がとてもほめられないような漢字ドリルの答案を持ち帰った際の親の反応を考えるのである。子供に強く同一化する親なら、子供が零点の漢字テストの答案を見せる際のふがいなさや情けなさに同一化するだろう。親にとってもその結果は我がことのようにつらいことになる。同一化型の親は子供を叱咤するにせよ、慰めるにせよ、それは自分の失敗に対する声掛けと同じような意味を持つことになる。
 自己愛の要素が強い親の場合には、零点の答案を見た時の反応は、そのつらさを味わっているはずの子供への同一化を経由したものとはいえない。親は何よりも子供により自分のプライドを傷つけられ、恥をかかされたと感じ、烈火のごとくしかりつける可能性がある。自己愛の傷つきは容易に怒りとして外在化される。それは最も恥を体験しているはずの子供に対して向けられる可能性をも含むのである。

ただしこの二種類の思い入れはもちろん程度の差はあってもすべての親に共存している可能性が高い。そしてその分だけ子供の達成あるいはその失敗に対する親のかかわりはハイリスク・ハイリターンとなる。ほめることは子供の心に莫大な力を与えるかもしれないが、叱責や失望は子供を台無しかねないだろう。だから自らの思い入れの強さをわきまえている親は、直接子供に何かを教えたり、トレーナーになったりすることを避けようとする。ある優秀な公文の教師は、自分の子供が生徒の一人に混じると、その間違えを見つけた時の感情的な高ぶりが尋常ではないことに気が付き、別の先生に担当をお願いしたという。おそらくそれは正解なのだ。ただしそれでも「父子鷹」(おやこだか)のように、親が同時に恩師であったりトレーナーであったりする例はいくらでもある。とすれば、親から子への思い入れは子供の飛躍的な成長に関係している可能性も否定できないのだ。

ところでこれらの思い入れの要素は、最初に述べた純粋なる「ほめたい願望」とどのような関係を持つのだろうか? これは重要な問題である。いずれにせよ親はその思い入れの詰まった子供と生活を共にし、ほめるという機会にも叱責するという機会にも日常的に直面することになる。おそらくその基本部分としては、やはり純粋な「ほめたい願望」により構成されていてしかるべきであろう。思い入れによりそれが様々影響を受けることはもちろんであるが、その基本にほめたい願望が存在しない場合には、子育ては行き詰るに違いない。

治療者が「ほめる」

臨床場面や臨床場面で「ほめる」ことについての考察はこの論文の本質部分でなくてはならないが、これまでの主張で大体議論の行き先はおおむね示されているだろう。結論から言えば、そこにもやはり純粋な「ほめたい願望」が本質部分としてなくては、その価値が損なわれるであろうということである。治療者は来談者と長い時間をすごし、親の子に対するそれに似た思い入れが生じておかしくない。ただし親子の関係とは異なり、治療者と患者のかかわりには別な要素が加わる。それは治療者がそれにより報酬を得ていることであり、そこに職業的な倫理が付加されることである。有料の精神療法のセッションの場合は、患者との対面時間がより有効に、相手のために使われるべきであることをより強く意識するであろう。他方では、治療者としてのかかわりは、それが報酬を介してのものであるために、職業的なかかわり以外ではドライでビジネスライクなものとなる可能性もまた含んでいる。治療場面外での相手との接触はむしろ控えられ、そうすることが職業的な倫理の一部と感じられるかもしれない。おそらく技法としての「ほめる」もここに関与してくるであろう。患者の達成や成果に対して、特に感動を覚えなくても、それを「治療的」な配慮からほめるという事も起きるべくして起きるだろう。この臨床場面における「ほめる」について、より詳細な考察を試みたい。

現代的な精神分析においては、治療者と患者の現実の関係性に重要性が指摘されている。そこでは治療者が患者といかなるかかわりを持ち、それを両者がいかに共有していくかが重要となる。そしてもちろん「ほめる」という行為もその意味が共有されることになる。通常私たちが日常的に体験する「ほめる」はいわば単回性のやり取りであるが、継続的な治療関係の中での「ほめる」は、それそのものの効果や是非を問うべき問題というよりは、その行為自体がさらに共有され、吟味されるべきものである。

さらには「ほめる」という行為の持つどこか「上から目線」的な雰囲気自体も問題とされよう。治療者と患者の関係は基本的には平等なものである。平等な関係においては本来「ほめる」ということはそのかかわりにおける意味を考えずに行われた場合にはエナクトメントとして扱うべきであろうし、場合によっては治療者の側のアクティングアウトとさえ呼ばれる可能性もあろう。

ここで具体例を挙げて考えよう。

ある患者Bさんが、最近週一回のセッションを休みがちになっていた。Bさんは遠方に住み、時間をかけて来院するため、治療者はそのことが関係しているのではないかと懸念していた。ところがここ1,2ヶ月はBさんは毎週来院できるようになったとする。治療者はその成果を嬉しく思い、「最近は毎回いらっしゃれるようになりましたね。よくかんばっていらっしゃいますね。」と「ほめ」たとしよう。治療者は自分の正直な気持ちを伝えたことになる。そしてそれを伝えられたBさんもその瞬間はそれなりに嬉しく感じたとしよう。

ここまでで終わった場合には、ごくふつうの「ほめる」という現象が治療関係においても生じた例ということになる。ところがこの背景には別の事情があったとする。Bさんが以前治療に来れなかった時は、治療者がいつも黙ったままで適切な反応をしてくれていない、と感じ、それをうまく治療者に伝えられないままに、治療動機が失なわれつつあったのである。それでもBさんはそのような自分に叱咤して毎回きちんと来ようと決めたのだ。しかしそれに対する治療者の「よくがんばっていますね」という言葉を聞き、Bさんは治療者がただ来院することが治療の進展を意味するという単純な考えを示しているに過ぎないという気持ちを抱いた。そして結局治療者は相変わらずセッション中に黙っていることが多く、Bさんのそれに対する不満は変わらなかったのである。

このかかわりを考えた場合は、治療者の「ほめる」はかなり治療者の思い込みや自己愛に基づいたものとなり、「ほめる」本来の役割さえも果たしていないことになる。それよりは、依然として「ほめる」部分を含んでいだとしても、次のような治療者のかかわりの方がより精神療法的ということになるだろう。

「あなたが治療に毎回来院できるようになっていることは喜ばしいと感じますが、あなたはどのように感じますか?」

これは治療者がBさんの毎回の来談を歓迎している一方で、そのことをBさんはどのように考えているのか、Bさんは自分とは異なる体験をしているのではないか、という顧慮を示していることになる。もちろんこれをきっかけにBさんが治療者への複雑な思いをすぐに語れるというわけではないであろうが、少なくとも治療者が毎回の来院イコール改善という単純な考えに留まってはいないことを暗に伝える役割を果たすであろう。あるいは治療者は、来院イコール改善と思いたい自分が一方にはいても、他方にはそれとはまったく異なる捉え方をする可能性のある別の主観(すなわち患者)の存在を認めるという意思表示をしていることになる。これに対してBさんが「そこをほめられると複雑な気持ちがするのです・・」と語り出したとしたら、そこから真の治療的なかかわりが始まると言っていいだろう。Bさんをほめたいというのはあくまでも治療者の主観的な体験であり、それがBさんの体験といかに異なるかという違いを照合することが治療的な意味を持つのである。すでに述べたが、「ほめる」はそれ自体がエナクトメントであり、「ほめっ放し」は相手の感じ取り方との照合の部分をおざなりにする可能性があるのだ。

ところで上記の例は、「ほめる」という行為が含みうる複雑な事情を表している。この事情は心理療法にとどまらないが、一応臨床場面に限って論じよう。治療者が「ほめる」という行為は、治療者が純粋な「ほめたい願望」に基づいて行ったとしても、相手に少しも響かない場合があるのだ。来院自体は患者にとって当たり前のことで、それを機会に近くでの買い物を楽しんでいるなどと言う場合を考えよう。「よくかんばって毎回いらっしゃいますね。」はクライエントにとってはほめ言葉としてまったく響かないどころか、むしろ後ろめたさを覚えさせるものかもしれない。更には時間をかけて来院することには特に苦はないが、セッション中に何を伝えていいかが分からなくて四苦八苦している患者にとっては、来院そのものをほめられることの意味は少ないであろう。来院すること自体に非常に苦労し、その苦労を治療者に分かって欲しい場合にはじめてこの言葉はほめ言葉としての意味を持つのである。

ただし治療者が患者の来院そのものを成果と感じ、喜ぶ場合には、それを伝え、その患者の感じ取り方を含めて考えていくことは、むしろその治療者にとって意味がある可能性は無視できない。本稿の前半で述べたとおり、ほめたい願望の純粋部分は、患者の喜びを喜ぶという愛他感情である。患者が進歩を見せる。あるいは喜びの感情を見せる。もちろん喜びの対象は患者の表層上の喜びにはとどまらない。それは患者と共有されていると思う限りにおいて口にされることで患者の治療意欲を大きく高めるであろう。たとえ患者がその喜びを当座は感じていなくても、将来きっと役立つであろう試練を味わっていると治療者が思う場合には、やはりそれも心のどこかで祝福するのだ。そしてそれは純粋なるほめたい願望を持つ親の子供に対する感情と変わりない。

最後に治療者がほめることの技法部分についても付け加えたい。これは特に治療者が感動しなくても、ほめることが患者にとって必要である場合にそれを行うという部分である。私がこの技法としてのほめる部分が必要であると考えるのは、治療者の気持ちはしばしば誤解され、歪曲された形で患者に伝わることが多いからだ。先ほどのBさん例をもう一度使おう。この場合は患者の治療意欲は十分であったが、体調不良や抑うつ気分のせいで、セッションに訪れるだけで精一杯であったとしよう。そしてそれを治療者にわかってほしいと願う。治療者は内容が特に代わり映えのないセッションの積み重ねに若干失望していたとする。患者が毎回来るだけでも必死だということへの顧慮はあまりない。ただスーパービジョンを受け、あるいはケースを見直し、ふと「自分はこの治療に過剰な期待を持っているのではないか?」「自分はこの患者が出来ていないことばかりを見て、できていることを見ていないのではないか?例えば以前の治療関係ではごく短期間しか継続できていなかった治療がここまで続いているということを自分は評価したことがあっただろうか?」治療者はこの時おそらく半信半疑でありながらも、こんなことを考える。「もしかしたら治療が続いていることに対しての労いを患者は期待しているのではないか?」治療者は次の回で伝えてみる。「あなたが体のだるさや意欲の減退を押して毎回通っていらっしゃるのは大変なことだと思います。」

本当は治療者はこの「大変さ」を心の底から実感していない。ただ患者の立場からはこの言葉が意味を持つのではないかということは理屈ではわかる。治療者は方便として「ほめる」のである。それを聞いた患者側はどう感じるだろうか? もし患者側が「久しぶりに、先生に私のことを分かってもらったという気がしました」と伝えることで、治療者がそれを意外に感じるとともに、自らの治療に対する考え方を再考するきっかけになるとしたら、これもやはり意味があることなのだろう。彼は純粋なる「ほめたい願望」の射程距離を少し伸ばせたことになるのだろう。

(1)(高橋尚子、小出義雄、阿川佐和子 阿川佐和子のこの人に会いたい 342 週刊文春、2000年6月1日号)

2017年8月18日金曜日

第2章 解釈を問い直す (1)

第2章 解釈を問い直す(1)
「共感と解釈」について― 本当に解釈は必要なのか?
小寺セミナー 2017723日にて発表

 精神分析の世界ではとかく、共感と解釈は両極端のものと考えられやすい。そして決まって「共感ばかりでは患者さんの洞察は得られないだろう。」という主張が優勢となる。洞察よりも共感の方がより本質的であり大事だ、という議論はほとんど聞かれないといってよいだろう。百歩譲っても、洞察は最終目的であり、そのための解釈を受け入れてもらうためには、まず共感が必要であるという言い方がなされるのである。そしてもし「共感だけでもいいのだ」という主張をしようものなら、あの恐ろしい宣告を受けてしまうのである。
「それは精神分析ではありません。」
私は分析学会の会場ではそんなことは怖くて言えず、またそれを提唱しようとは思わない。その代りに次のように申し上げることが妥当であろうと思う。
精神療法とは、洞察と共感がその両輪なのだ

     (以下略)

2017年8月17日木曜日

精神療法と倫理 ① 真っ白体験 ③

精神療法における倫理
精神療法における倫理の問題は極めて重要である。臨床家としての私が常日頃それを思うのにはある理由がある。

(中略)

特に駆け出しのカウンセラーにはありがちな対応であろう。このカウンセラーの取った行動は倫理的だろうか?
勿論一概にこのセラピストの行動の是非を論じることが目的ではない。一つ考えていただきたいのは、このセラピストの行動に関連した倫理性には、大きく分けて二つが存在することだ。
    クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
    「治療者としてなすべきこと」を遵守した行動だったか?
私が長年のスーパービジョン体験から感じるのは、このうち2.に関連した懸念が少なくともセラピストの意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「セラピストとして正しくふるまっているのか」はおそらく大半の経験の浅いセラピストの胸にある。そしてそれは多くの場合、①を検討する機会を奪っているようである。その結果としてセラピストにとっては②は満たされたことになるのかもしれない。しかしクライエントは気持ちを無視され、いたたまれない気持ちになった可能性がある。

ところでこのような問題については倫理についての議論が助けとなることは、心理の世界では意外と論じられていない。倫理に関する分類として1970年代より提出されている、道徳的倫理か、慣習的倫理か、という考え方である。その代表であるElliott Turiel は、道徳的な決まりmoral rulesと慣習的な決まりconventional rulesとの区別を挙げ、それは次のように理解されている(Kelly, et al, 2007) 。前者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るが、後者は地域や文化に依存し、守られない場合に具体的な被害者が出ない。ただこれをより心理学的に翻訳するならば、前出の①,②という表現に相当することになる。ただし慣習的な決まりにおいてだれも被害者は出ないのであろうか?②により①が犠牲になる形で生じるという問題がある。そしてそれはたとえば治療構造を守る()ことで患者の気持ちがくみ取れなくなる()という形が多いようである。
Turiel , E . 1979 : Distinct conceptual and developmental domains: social convention and morality . In Howe , H . and Keasey , C . ( eds ), Nebraska Symposium on Motivation, 1977: Social Cognitive Development. Lincoln : University of Nebraska Press .
Kelly, D., Stich, S., et al (2007) Harm, Affect, and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language, Vol. 22 No. 2 April 2007, pp. 117–131.


真っ白体験と認知症
 ちなみにこの真っ白現象、認知症では定番である。認知症では、たとえば近所を歩いていて、突然パニックに陥る。家へ帰る道が分からなくなるのだ。ある原爆の語り部は、認知症が始まり、形の途中で絶句してトイレに駆け込みでてこない、という体験を持ったという。意識(ワーキングメモリースペース)に内容を送り出すというプロセスが、特に認知症では深刻な障害を受けるらしい。WMスペース、このターム今思いついたが使えるだろう。ここに次の瞬間の内容が繰り広げられるのだ。

2017年8月16日水曜日

真っ白現象の続き 第1章 純粋主義を批判する ③

真っ白現象の続き
ちなみに真っ白現象、臨床的にはたとえば緘黙という現象とも関係する。場面緘黙に関する漫画(「かんもくって何なの!? モリナガアメ著 合同出版」に描かれた緘黙状況は、頭が真っ白になり、言葉そのものが出てこない状況が描かれている。勿論緘黙の状況がすべてそうではないにしても、例えばクラスで急に先生に刺されて、「わかりません」すら言えない状況がこれに類似する。言葉はそれを発する前に心の中でそれを準備する。脳科学的に言えば、運動前野premotor cortex でその発声が準備されるわけである。ところが真っ白状態では、ここに何も準備されない。つまり「わかりません」すら思いつかないということになる。これは周囲からは実に不思議に映るだろう。どうしてそんな簡単なことが言えないのか?しかし本人には深刻である。

ちなみにこのような現象は通常人でも起きる。緊張して言葉が出てこない、自己紹介しようとしても自分の名前が分からなくなる、などの状態は対人場面でも生じるわけだが、基本的には解離の機制に類似すると考えていいだろう。解離とはこのような脳の機能の抑制がいきなりかかる現象である。


第1章 精神分析の純粋主義を批判する

精神分析の純粋主義を否定した小此木先生
私は本章で小此木先生の思い出を語りつつ、彼から学んだ姿勢について書いているわけであるが、ここまでは私のあいまいな記憶を掘り起こしたものである。しかしここからは多少なりとも「エビデンス」を伴った記載をしたい。実は私はちょっとした録音マニアである。そして小此木先生の晩年の声を記録してある。具体的には、それは2002年の初旬に撮られたものであり、小此木先生が既に闘病生活に入られていたころのことである。全体で3時間の録音の記録は、ある場所で行った精神分析の講演であり、そこで小此木先生には細やかなコメントをいただいた。その後小此木先生の入院先まで同行し、ベッドサイドでの会話も撮ってあるのだ。もちろん小此木先生には録音の許可をいただいてあった。
さてその講演の中で、私は精神分析家を「純粋主義者」と「相対主義者」に大きく分類している。思えばかなり乱暴で挑戦的な内容だ。一歩間違うと、精神分析の理論的な支柱となる人の多くを、純粋主義者として切り捨ててしまうことになる。そんなことをフロイトの大家である小此木先生の前でいうのだから、叱りつけられてもおかしくない。しかしその講演に対する小此木先生のコメントはとてもサポーティブなものだった。彼は「オカノ君、純粋主義者、とはいい呼び方だね。ふつうは教条主義者ということになるだろうけれど、それだとネガティブな意味が強すぎるからね。」なんとやさしいフォローの仕方ではないか。そしてそこには「僕も実は相対主義者なんだよ。大きい声では言えないけれどね。」というニュアンスが含まれていた。
そこでこの講演の内容についてもう少し説明しよう。そのほうが先生のコメントの意味が分かりやすくなる。テーマは、「治癒機序について」というものだった。「チユキジョ」といっても精神分析の話を聞いたことのない人には何の事だかわからないと思うが、要するに、精神分析は、具体的にはどこのどういう点が、患者をよくするの?ということだ。最近よく聞く話では、患者さんが「ああ、このお薬は、セロトニンを増やすから、うつが治るのね?」ということが多くなってきたのだが、これがいわば抗うつ剤の治癒機序、ということになる。(もちろん「セロトニンが増える」というだけではあまりに単純化しすぎているわけだが、「フーン、それでこのお薬は効くんだ」と患者さんが納得するとしたら、そこで頭に思い描くこととしては、ある種の具体的なメカニズムを考えているわけだ。
 この話の中で、私は「精神分析的には、解釈、つまり患者の無意識内容を治療者が伝える、というのが古典的な理論における治癒機序が、私は違うことを考えています。」ということを聴衆、および小此木先生の前で話したのである。フロイトはこの解釈こそが治癒機序だといった。そこから精神分析がスタートした。そしてそれを原則的に守る人たちが、私が「純粋主義者」と呼ぶ人たちである。だから私が主張したことは、ある意味では従来の精神分析にとっては異説である。当時45歳の若輩者としては、挑戦的な内容だったといってもいい。これに対して小此木先生は、まるで駄々っ子をニコニコ見守るような視線なのである。