2017年4月27日木曜日

書評:精神分析における関係性理論 ②

4月17日以来書いていなかった書評を書き終えた。イヤー、勉強になったなあ。
(承前)
 「第3章 関係性理論は心理療法の実践をいかに変えるか――古典的自我心理学と比較して」では、関係論的な枠組みにより治療がどのように変わるかについての具体的な論述がある。それは自由連想や解釈についての基本的な考え方の再考を促す。そこで強調されるのが、古典的精神分析においては「辿り着く唯一の真実」の存在が前提とされるということである。関係論においてはその代わりに、患者の中でいまだ構成されていない、いわば「解離された」自己が問題とされる。フィリップ・ブロンバーグらにより近年提唱されているこの概念は現代の関係論における一つの大きなトピックとなっている。  
 「第4章 精神分析における対象概念についての一考察 ――その臨床的可能性」と「第5章精神分析における時間性についての存在論的考察」は、本書の他の章と多少趣が異なる。両者とも精神病理の学術誌に掲載されたもので、対象の概念、および時間の概念に関するより詳細な理論的考察がなされ、哲学出身の著者の真骨頂ともいえる。第4章の骨子を述べるならば、フロイト自身の理論の変遷の中に、対象概念の変遷が見られたが、それを内在化のプロセスに従って(1)外的対象とは別に(2)内的対象を1,2,3の3種類に分けることが提案される。特にその2番目は、自我機能を一部担った内的対象として、特にボーダーライン水準の患者に見られ、トーマス・オグデンが「半ば自律的な心的機関」と呼ぶものに近づくというが、この議論は臨床的にも非常に興味深い。著者はさらにブロンバーグなどの「対象の多重化の概念」に言及され、対象の概念が関係精神分析で一つの焦点となっている点が示される。
 第5章においてはまずハイデガーの時間論が論じられ、続いてその影響下にあるハンス・レーワルドとロバート・ストロローの議論が登場する。ストロローは自らの体験をもとに、心的な外傷が生む非時間性について論じる。そしてさらなる存在論的時間論を展開する論者として再び登場するのがブロンバーグである。彼はキー概念として自己の多重性、「非直線性」を掲げ、そこでは時間性の病理についても「非直線的な多重の自己状態」と唱える。すなわち自己の非直線性は情緒的外傷をこうむることで自己の中の一貫した歴史から外れた体験として生じる。それが解離された体験とつながるのだ。
 「第6章 関係性と中立性―治療者の立つ所という問題をめぐって」では、詳細な臨床例をもとに、伝統的な精神分析における中核概念としての中立性やエナクトメントについての考察がなされる。ある日筆者はいつも持参するノートを忘れてセッションに臨み、患者がそれを指摘する。そして筆者がそれをあいまいに返したことで患者が「嘘をついた」と咎めるというやり取りが描かれる。そこで筆者は過度に謝罪的にならず、かといって自分を正当化したりもせずに「両価的で葛藤にみちた存在として」患者の前に立ち現れる。そして治療の場を葛藤を内的に扱える能力を育てる場として表現する。筆者はこのかかわりを中立性に代え、あるいはそれを超える関わりとして示しているのである。
 「第7章 行き詰まりと関係性――解釈への抵抗について」でも筆者の症例に基づくきわめて興味深い議論が展開する。本章で考察の対象になるのはエナクトメントであり、最近の関係論的な考えでは治療において何が生じているかを知る上で極めて重要な意味を果たす概念である。筆者はある症例とのかかわりにおいて、「患者が正しい答えをし、治療者は正しい解釈を行う」というエナクトメントを起こしていることに気が付く。そしてその考えを率直に患者に伝えることで治療的な進展が見られたことが報告されている。さらにそもそもエナクトメントが表しているのは、患者と治療者により解離されていた内容であり、その意味ではその内容が意味を持つためにはむしろ必然的に生じてくるという考えが示される。続いて著者はある心の内容が象徴的な理解を逃れている場合、それが具象レベルで外的に表現されるのがエナクトメントであると説明する。それは分析家バスにより「表面の防衛」と呼ばれたものであり、ブロンバーグの解離の議論につながる。ブロンバーグは表象レベルでの変化、すなわち解釈が生じる際にはエナクトメントという現実が必要であり、その際に分析家自身の多重の自己状態の自己開示が意味を持つという。そして解釈は「ブーツのつまみ問題」(説明は略す)をはらんでいるためにそこでの本来役割を果たせないという。
 「第8章 分析家の意図と分析プロセス」では実際の精神分析状況が関係論的な視点からどのように再考されうるかについて論じた章である。そこで基本的に問われるのは、私たちが「理解という誤謬」(レベンソン)にいかに陥りやすいかということを問い、その見地から中立性やブランクスクリーンの概念について、主としてホフマンに依拠しつつ論じる。続いて提示されているケースでは、患者の方が治療者をブランクスクリーンと見立てたという点が特徴的である。すなわちそれは治療者が望ましい治療態度として意図して「処方」したのではなく、患者が治療者をブランクスクリーンとして見立てたというプロセスが取り上げられ、それ自体が臨床素材として扱われる結果となったのである。関係精神分析においてはこのような伝統的な精神分析との逆転現象が生じる。
 「第9章 多元的夢分析の方法に向けて」では、フロイト以来無意識への「王道」と考えられてきた夢分析についての再考が加えられる。ここでは様々な学派から唱えられてきた夢の理論が紹介され、フロイト派において主流であった夢の内容についての分析よりはむしろ、プロセスとしての夢の意味を見出す立場が唱えられる。すなわち夢はそれが語られる文脈からも、特に転移―逆転移のエナクトメントとしても意味を持つのではないかと考えられるようになった。そしてそれは夢を解離された内容として捉えるブロンバーグの理論へ結びつく。この章に盛られている内容は膨大で、読者がそれぞれの立場から読み解いていただくしかないが、そこでは無意識内容が象徴化された形で夢となるというフロイトの定式化は遠い過去になり、夢は「生の知覚データ」(ビオン)、解離された知覚(ブロンバーグ)が意味を付与される現象であるという考え方が紹介されている。夢とはまさに治療状況という文脈において創発されるものであるという構築主義的な視点が意味を持つのである。それに続く臨床例では夢の内容を解釈するというプロセス自体が夢の内容の再現となるという一種の循環が例示され、夢はその全貌が解明されるのではなく、より一層多元的なものとなるという視点が示されている。
 全体としての印象は、その米国での臨床家としての豊富な経験から関係精神分析を概説した、極めて優れた書であるということである。著者は特に関係学派のリーダーの一人ともいえるブロンバーグからの影響が見て取られ、著者が訳したブロンバーグの「関係するこころ」(誠信書房、2014年)の参照も薦められるであろう。
 私が個人的に知る筆者は臨床能力に優れ、しかも英語はネイティブ並みながら極めて温厚な人柄で頼もしい限りである。将来日本の精神分析界を牽引していく存在であることは言うまでもなく、その存在感を示す意味を持った良書と言える。

2017年4月26日水曜日

共感と解釈 ③

 そこで私はもう一つのタイプのモティベーションとして、2.「説明してもらう」が登場する。これはある意味では治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになる。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭に収めたいということだが、要するに物事の因果関係を明らかにするということだろう。因→果の図式ほど頭にすっぽりおさめやすいものはないからだ。そしてそのためにはどうしても言葉が必要になるのだ。
「いま私には何が起きているの?」
「私はどうしたらいいの?」
すべてのせっぱつまった疑問に対する答えは、ある種の因果関係を示すことなのだ。「AだからBが起きたんだよ。」するとそれだけで納得でき、心に収めることが出来る。その中にはたとえば「起きたことは大したことないから、心配することないよ」単なる気のせいだよ。
 浅田真央さんが引退すると言うことで、ちょっと前にメディアでいろいろなシーンが流された。を送り出すときの佐藤コーチ。何かを言っている。よく聞くと「メダルを取ることなんでいいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という言葉が聞こえた。真央ちゃんはそれを真剣に聞き、納得してリンクの中央に向かって滑り出していく。あの言葉は何だろう? 今流行の言葉で言うナラティブである。一つのまとまった意味。それは私たちに安心感を与える。それがないと不安でいられないのだろう。事前は、人生はまさにカオスのふちにある。何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。そのときに一つでもそこに意味を見出すことで安心する。何となく体がだるい。何が自分に起きているのだろう?ふとのどの痛みに気がつく。熱も少しある。「そうか、風邪なんだ」と納得する。「おそらく風邪だろう」はそれより悪性の、場合によっては致命的な何かではなさそうだ、という安心感を与えるのだ。
 しかしそれにしても昔の人たちは大変だったはずだ。たとえば日食が起きて急に空が暗くなったとしても、不吉な出来事の前兆とされたのである。今の私たちだったら意味のないこのナラティブは、おそらく日蝕に関する科学的な説明、つまり何年かに一度起きる天体現象であり、無害であるというナラティブに取って代わることで私たちを安心させてくれたわけである。

2017年4月25日火曜日

トラウマと精神分析 ④

 第3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢である。これに関しては、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向であるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
4.関係性、逆転移の重視
 関係性の重視は、患者がPTGを遂げるうえで極めて重要となる。
その際治療者の側の逆転移への省察が決め手となる。

5. 倫理原則の遵守

これについてはもう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず常に重要なことだが、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向があるので、自戒の念も込めて掲げておこう。

精神分析における倫理基準(米国精神分析協会、2007年、抜粋) では精神分析家の従うべき倫理基準として以下の点を掲げている。
1.分析家としての能力 competence
2.  患者の尊重、非差別
3.平等性とインフォームド・コンセント
4.正直であること truthfulness
5.患者を利用 exploit してはならない
6.学問上の責任
7.患者や治療者としての専門職を守ること

最後に―トラウマを「扱わない」方針もありうる
 最後に蛇足かも知れないが、この点を付け加えておきたい。トラウマ治療には、トラウマを扱わない(忘れるように努力する、忘れるにまかせる)方針もまたありうるということだ。トラウマを扱う(「掘り起こす」)方針は時には患者に負担をかけ、現実適応能力を低下させることもある。もし患者がある人生上のタスク(家庭内で、仕事の上で)を行わなくてはならない局面では、トラウマを扱うことは回避しなくてはならない場合も重要となる。治療者は治療的なヒロイズムに捉われることなく、その時の患者にとってベストの選択をしなくてはならない。そしてそこには、敢えてトラウマを扱わない方針もありうるということである。

2017年4月24日月曜日

トラウマと精神分析 ③

 ということですでに示したこのカンバーグの文章のオリジナルを探したのだが、どうしても見つからないのだ! 私は幻の文章を読んだのだろうか?一番近そうな文章を探して、Otto F. Kernberg:Unconscious Conflict in the light of Contemporary Psychoanalytic Findings Psychoanalytic Quarterly, 2005 という論文を見てみたが、彼の主張は結局はあまり昔と変わっていないのだ。ただし最近のトラウマ理論とか脳科学をしっかり引用している。それでいて結局は原初的な攻撃性の話に向かってしまう。結局彼は懲りてはいないようだ!!・・・仕方がない。カンバーグの引用はやめにして、先に進もう。

関係精神分析の発展とトラウマの重視

 伝統的な精神分析理論はトラウマ理論やトラウマ関連障害の出現により逆風にさらされることとなった。精神医学や心理学の世界で近年のもっとも大きな事件がトラウマ理論の出現であった。1980年のDSM-IIIでPTSDが登場し、社会はそれから20年足らずのうちにトラウマに起因する様々な病理が扱われるようになった。国際トラウマティック・ストレス学会や国際トラウマ解離学会が成立した。現代的な精神分析(関係精神分析)は「関係論的旋回」を遂げたが、その本質は、トラウマ重視の視点であったといえる(岡野)。
 現代的な精神分析における一つの発展形態として、愛着理論を取り上げよう。愛着理論は全世紀半ばのジョン・ボウルビーやルネ・スピッツにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてメアリー・エインスウォースの愛着パターンの理論、そしてメアリー・メイン成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい。(ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳 (2016) 身体はトラウマを記録する―脳・心・体のつながりと回復のための手法 紀伊国屋書店)
 最近精力的な著作を行うアラン・ショアの「愛着トラウマ」の概念はその研究の代表と言える。ショアは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。

トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
 以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を提唱しておきたい。それらは


1. トラウマ体験に対する中立性
2. 「愛着トラウマ」という視点
3. 解離の概念の重視
4. 関係性、逆転移の視点の重視
5. 倫理原則の遵守
の5点である。

 第1点は、トラウマに対する中立性を示すことである。ただしこれは決して「あなたにも原因があった、向こうにも言い分がある」、ではなく、何がトラウマを引き起こした可能性があるのか、今後それを防ぐために何が出来るか、について率直に話し合うということである。この中立性を発揮しない限りは、トラウマ治療は最初から全く進展しない可能性があるといっても過言ではない。
 第2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということである。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。私が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性があります。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。

関係精神分析入門 ②

4月10日の続きである。

フロイトの何を問題視しているのか?


 まず関係論が始まったきっかけについての議論なのですが、おそらく一番問題とされたのは、理論と現実の齟齬、ということでしょう。フロイトの理論に従えば治療がうまく行くのであれば、全く問題がないわけです。ところがそうではなかった、というよりはそうではないケースがたくさんあることが分かったのです。
 フロイトの理論の根幹部分は、治療者が受け身であることで、患者の無意識が自然に展開していく、という考え方です。実は私自身まさにそのようなケースを体験しています。私が黙って聞いている一方で、病理が展開していく。このような考え方と真っ向から対立するのが、臨床場面においては何が起きるかわからない、あるいは新しい何かが創造されていく、という考え方です。この二つの考え方は全く対立し、本来は両者が少しずつ存在しているにもかかわらず、どちらかに偏った見方がなされることが多い。
 もちろん非常に治療的なセッションが、治療者の方が黙って話を聞いていくうちに展開していくということもあるでしょう。ただしそこでも何かが両者の中で起きていて、それは何かが醸成されていく、創りだされていくというニュアンスなのです。少なくともフロイトとは違うことが、両者の間の、いわばブラックボックスの中で起きてくる。それを直視しようという考え方が出現しました。対人関係論も、対象関係論も、そのような流れだったと思います。

従来の関係精神分析のたどった(道中略)

 さてこのお話の後半は、新・無意識についてお話しします。



2017年4月23日日曜日

トラウマと精神分析 ②

 精神分析の立場からトラウマ理論に対して一種の失望の気持ちを持っていることはこの様な経緯を考えればある程度仕方のないことなのかもしれない。たとえば精神分析家の藤山氏は、以下のように書く。
「・・・プレ・サイコアナリシスというか精神分析以前、「ヒステリー研究」の頃のフロイトの考えでは、患者はどちらかというと環境の犠牲者なんです。これは例えば最近のハーマンなどの外傷をやっている人たちの理論と非常に近いんですね。つまり人間の心の病気というのは、心的外傷に基づいているものだという、そういうことになってしまいます。・・・」
(藤山直樹 集中講義・精神分析(上)  岩崎学術出版社 2008年)
 精神分析の立場にもある筆者にはこの藤山の記述も分かる気がする。確かにトラウマを強調することは、ある種の単純化や還元主義に向かう傾向は確かにあるであろう。ただし時代の趨勢としてはトラウマの役割を無視できないということは以下のカンバーグの記述にもうかがえるであろう。
「…私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ…)」。(Kernberg, O.,1995)
 カンバーグと言えば、1970年代から80年代にかけて境界パーソナリティ障害についての理論を打ち立て、精神医学界にも大きな影響を与えた人物であるが、その病院論としてはクライン派の理論に基づいた患者の持つ羨望や攻撃性が強調された。そのカンバーグの立場の変化はおそらく精神分析の世界におけるトラウマの意義の再認識が起きていることを象徴しているように思える。

2017年4月22日土曜日

共感と解釈 ②

10日ぶりのこのテーマだ。誰も覚えていない(読んでいない?)だろう。

私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きということである。そして「自分をより知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

精神療法とは何をするところなのか?
 
ここまで戻ることをお許し願いたい。実は精神療法とは何をするところなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを定義することが出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングという立場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストとクライエントが一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そしてクライエントが再びセラピストが訪れる意欲や動機を持ち続ける限りはそのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的なこと(たとえばセッション中の逢引)、あるいは通常の精神療法で生じること以外のこと(たとえば囲碁や将棋に興じる、マッサージを施す、家庭教師をするなど)が起きていない限りは、それは精神療法として成立するのである。
 そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが維持されるのかを考える。実は私は「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。それ以外を考えよう。私は二つを提案したい。
1 自分の話を聞いてもらい、分かってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して説明をしてもらうこと。
 他にもあるかもしれないが、これら二つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。1.に関しては、人が自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかしそれだけではないだろう。

2017年4月21日金曜日

トラウマと精神分析 ①

トラウマと精神分析

抄録
精神分析という世界の内側にいると、分析的なアプローチへの批判や猜疑心だけではなく、期待も聞こえてくる。トラウマに対する治療に関する精神分析への期待とは、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からアプローチし、洞察を求 める」ことになろう。そして精神分析を専門的に用いる治療者にも、多くの場合はそのような自負ないしは覚悟がある。 このような期待は、精神分析の理論が時は非常に複雑かつ難解で、そのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、 その分深遠に映ることにも起因しているであろう。しかし精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が決して明快ではなく、 また容易ではないという事実の認識がある。無意識の探求とは、フロイトが想定していたものとは異なり、まさに海図のない航海と形容すべきものである。また「洞察を求める」ことは理想的には「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は 深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。その根 底には、伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。  本発表ではこのような背景を踏まえて、トラウマ治療における「共通因子」の問題について精神分析の立場から論じた。

はじめに
 筆者は精神分析家としてのこれまでの精神分析学会での活動のほかに、トラウマティック・ストレス学会での活動も行ってきた。そこで両方の学会に属する臨床家の声を聴くことが多いが、一つ印象的なことは、トラウマを治療する人々から精神分析に「期待」には以下のようなものが聞かれることである(岡野、2016)。

  • 精神分析はトラウマに起因する症状よりもより深層にアプローチし、洞察に至るものである。
  • トラウマに関連した症状が扱われた後に本格的に必要となるプロセスである。
  • 患者の持つパーソナリティ傾向に働きかける用意がある。
  • 精神分析のトレーニングを経た治療者が、特権的にその治療を行う事が出来る。
 これらの期待は現在の精神分析に向けられうるのだろうか? その疑問を胸にこの論述を始めたい。

伝統的な精神分析とトラウマ理論


 さて精神分析家としての私としては、多少なりとも自戒の気持ちを持って次の点を明らかにしなくてはならない。それは伝統的な精神分析は残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。それを説明するうえで、精神分析の歴史を簡単に振り返る必要がある。
 フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡(マッソン編、2001年)に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、と言うことである。この経緯もあり、精神分析理論は少なくともその古典的な立場をとるものにとっては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的な要素、ネガティブなニュワンスを負わざるを得なくなった。
 その後フェレンチによる性的外傷を重視する態度に対しては冷淡であった。これなども驚くべきことである。フロイトが1897年以前に行っていたことをフェレンチは繰り返しただけなのに、彼もまた黙殺、あるいはそれ以上のことをされてしまったのだ(Masson, 1984)。フロイトは同時代人のジャネの解離の概念を軽視した。これも全く同じ理由である。


岡野憲一郎:トラウマの心理療法で共通因子を探る―精神分析の立場から(シンポジウム:トラウマの心理療法)日本トラウマティック・ストレス学会総会第15回大会 (2016年5月20日 仙台国際センター)
J.M.マッソン 編 河田 晃 訳 フロイト フリースへの手紙 1887-1904 誠信書房, 2001年
Masson, JM The Assault on Truth: Freud's Suppression of the Seduction Theory (Farrar, Straus and Giroux、1984