2018年5月25日金曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 6


3章 解釈の未来形-共同注視の延長について

前章では、「解釈中心主義」という言葉に表されるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ・・・」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。
最初に「ここで解釈という概念を残し・・・」という私自身の表現について、注釈をつけておこう。精神分析の世界では、解釈を治療の中心にすえるという立場を取るか否か、という議論は非常に大きなウェイトを占める。それは言い換えれば伝統的な精神分析理論を否定するのか否か、という問いのような、一種の踏み絵のようなニュアンスさえある。おそらく精神分析の伝統を守る立場 (クライン派、自我心理学、対象関係論の一部など) では、解釈を中心に据えた治療を考え続けるであろう。これを第一の立場とするならば、より革新的な立場 (対人関係学派、関係精神分析など) 「解釈を超えた」治療機序を重んじるであろう。これが第二の立場だ。しかしここにはさらにもうひとつの立場が存在し、それは解釈という概念を拡大し、そこに「無意識にすでに存在する真実を伝える」という従来の考え方を抜け出し、治療的な要素を含んださまざまな介入に関して、それを解釈と呼ぶという立場が存在する。これを解釈に関する第三の立場と呼ぶのであれば、私は自分はその立場にあると考えてもいいと思う。よく考えれば分かるとおり、第二の立場と第三の立場は、実は非常に近縁なものとなりうる。それは解釈をいかように定義するかによりどちらにでも立つことが出来る、いわば両立しうる立場なのである。
ではその解釈の定義の違いとは、以下のように表現することが出来るかもしれない。第一の立場においては、解釈とは本来はフロイトが患者の無意識内容を伝えることを意味した。より一般化して言えば「患者の言動の隠れた意味を明らかにする介入」(Laplanche, Pontalis, 1973) と定義されるだろう。第二の立場は解釈の定義をそのまま受け、それを中心にすえることを拒否し、たとえば対人関係ないしは関係性そのほかの治療機序を第一に考える立場といえるだろう。それに比べて第三の立場では、解釈は「患者がより洞察を得るために役立つような治療者の介入すべて」とでも定義できるようなものである。
以上を前提として、本題に入っていこう。
ボストン変化プロセス研究会著 丸田 俊彦 訳 解釈を超えて. 岩崎学術出版社 2011

Laplanche, J and Pontalis, J.B (1973). The Language of Psycho-Analysis: Translated by Donald Nicholson-Smith. The International Psycho-Analytical Library, 94:1-497. London: The Hogarth Press. P228


1.あらためて「解釈」とは? 技法の概要
2章から検討している解釈という分析的な技法について、ここで改めてその定義について調べてみよう。わが国の精神分析事典(岩崎学術出版社、2003) には次のように記されている。
[解釈とは] 分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、2002) ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていた。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009) 。(前章から継続してお読みの方は、治療者が示す共感も、この示唆により近い介入といえることがお分かりだろう。ともかくフロイトは解釈以外のあらゆるものを、このように呼んだのである。)私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。
小此木啓吾編2002「精神分析事典 岩崎学術出版社

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトによりこれほどまでに退けられたのか? この点について振り返っておこう。本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。(SE.17, p164)

心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。
Lines of Advance in Psycho-Analytic Therapy (SE.17, p164)
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべきであるとする根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針から逸れるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日の日本の精神分析の世界では、解釈は分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしフロイトがそうしたように、示唆を排除する立場もそこに含めるとしたら、治療者の介入のあり方はかなり制限を加えられることになるだろう。なぜなら実際の臨床場面では、解釈以外のかかわりを治療者が一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。「解釈とはことごとく示唆の一種である」というHoffmanの提言もその意味で頷ける(Hoffman, 1992)。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような形で、その概念を拡張することが必要であり、また有用であると考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。
目の前の患者の背中に文字が書いてあり、彼はそれを直接目にすることができないとする。そして治療者は患者の背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者が部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?
もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さをも意味しているのだろう。
ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味である。患者はすでにその背中の文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。あるいは背中に文字が書かれていることを知らないかもしれない。
患者がもし何かの文字が書かれていることは知っているとした場合、それを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて治療者に伝えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを知らせてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者との共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにさまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

 以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者本人よりは治療者のような周囲の人が気づきやすいような、患者自身の特徴や問題点を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者の仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者の耳には直接入っていない噂話かもしれない。
この場合にも治療者が出来ることに関しては、上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性が確かにあるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字の意味するものが患者にとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は、外から植えつける「示唆」的であっても、それが患者にとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも了解されるだろう。

2018年5月24日木曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 5


そもそも精神療法とは何をするものなのか?
ここからは、本章の後半部分である。前半では、治療者の役割のうちの解釈部分は、治療者が自分の無意識を知りたいという前提があって初めて意味を持つのであろうが、そこで主要な介入とはオブザベーション(指摘)であるという内容だった。しかし本章で問い続けている、「患者が何を求めて来談するか」という問題に関する答えには至っていない。そこで「そもそも精神療法とは何をするものなのか?」というテーマにまで戻りたい。きわめて原理的な問題だが、これまでの議論を前提にして改めて問い直すと、何か新しい見え方をするかもしれない。
実は精神療法とは何をするものなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを明確に定義することは出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングの場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストと患者が一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そして患者が再びセラピストを訪れる意欲や動機を持ち続ける限りは、そのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的な事態(治療者による患者の搾取など)が生じない限りは、かなりの範囲のかかわりが精神療法として成立し得るであろう。
そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが患者の中に維持されうるかを考える。ここではふつうは具体的な動機付けが先ず考えられるのであるが、私は逆を行きたい。それは患者にもわからないような動機から考えるということである。たとえば私たちがヨガに通うとき、マッサージに通うとき、パソコン教室に通うとき、おそらく家を出る際には、それらの場所を訪れたときの雰囲気や、そこから帰った時の気分を思い浮かべるであろう。おそらくは私たちは間違いなく、そこから帰る時の、ある種の漠然とした心地よさを予想しているはずである。あるいはそれを継続すると決めたことによるある種の達成感ということもあるだろう。そしてその心地よさがどこから来るかは、本人にも詳細はわからないのである。
私たちが治療のセッションに向かう時間になった時、「今日はどうしよう? 行こうかな?」と迷う際の決断の決め手となるのは、面接室の雰囲気、治療者との会話、行き帰りの時間等における心地よさの度合いを先取りして体験している。そしてそこでの総合的な評価はおおむね無意識的になされているものである。
ある患者さんは、「セッションに行くと、そのあと気分が持ち上がる、いい気持ちになる、達成感がわく、ということがあるんです」と言ったが、それは彼の治療がうまく行っていることの表れと言えるだろう。それが治療者に会いたい、そこでは居心地良く過ごすことが出来る、などの体験を生む。
一つここで言及しておきたいのは、セッションに訪れる人は、ある種の心地よさを求めている、という私の主張は、そのセッション自体が快適であったり楽しかったりすることを必ずしも要請してはいないということだ。そのプロセス自体は苦しく、痛みを伴ったものかもしれない。ただそれでも患者がセッションに訪れるとしたら、その苦しみや痛みそのものがある種の心地よさを生み出しているはずなのだ。それはたとえば苦しいだけのトレーニングや山登りへ人を向かわせるものでもある。苦しいからこその達成感も私たちを捉えて止まないものである可能性があるのだ。
しかしここではとりあえずはセッションそのものから何らかの快適さを味わうという、比較的単純でわかりやすい状況に話を絞ろう。そこにはそこには様々な要素が考えられよう。私は特に以下の三つを考える。

1 自分の話を聞いてもらい、わかってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して誰か(治療者)に説明をしてもらうこと。
3.治療者の存在に触れることで孤独感が癒されること。 

お気づきのように、私はここに「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。その根拠はすでに本章の前半で述べたからだ。ここではそれ以外の理由を考えていただきたい。もちろんこの三つ以外にもあるかもしれないが、これら三つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。
 1.に関しては、人が持つ、自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして自分達の体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に、なぜ人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかし多くの場合、それだけではないだろう。
2.については、ある意味ではこれが治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになることが多い。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭におさめたいという私たちの願望に由来するのであろうが、これは物事の因果関係を明らかにするということでもある。それを自分自身ではできないと感じる時、他者の視点を必要とするのだ。その事情を説明された他者が、「それはAが原因でBが起きたからだよ。」と単純に説明しただけで、その人は心に収めることが出来るかもしれない。それは自分自身ですでに説明されていたとしても、他者の口を通して語られることで初めて腑に落ちるということもあるのだ。その中にはたとえば「起きたことはたいしたことないから、心配することないよ」「単なる気のせいだよ。」という説明すら意味を持つかもしれない。
ここで例を一つ出したい。最近引退したフィギュアスケートのAさんが、テレビのドキュメンタリー番組で流されたシーンでコーチとやり取りをする。演技を前にしてコーチが何かAさんに言っている。それに彼女は一生懸命うなずく。よく聞くと「メダルを取ることなんていいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という内容の言葉が聞こえる。Aさんはそれを真剣に聞き、大きくうなずいてリンクの中央に向かって滑り出していく。
あのコーチの言葉は何であったのだろう? 「自分の演技をしなさい」とはどのような意味を持っているのか。おそらくコーチにもAさんにも明確な説明は出来ないのではないか。ただそれでも大切な効果を担っていた言葉なのである。それによりAさんは、「そうか!」と思えたのである。
私たちの生きている世界はカオスである。将来何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。その世界での出来事に、一つの理由や意味を見出すことで私たちは安心するのだ。それにより将来をある程度予知でき、危険を回避し、安全に生きることが出来るからである。
さて3.である。これも実に侮れないどころか、実は心理療法が継続される際の最大のモティベーションとなっているのではないかと考える。そしてこれはもちろん1.とも深く関係している。治療者が患者の話を聞いて理解することで、患者は治療者の存在を身近に感じ、その孤独感がある程度は癒されるのである。人間関係の中には、長年連れ添った夫婦や、成人後も生活を共にする親子関係などにおいて、身体的には互いに近い場所で生活をしていても、精神的には極めて希薄な関係性しか持てない場合がある。そればかりか、一緒にいることでもっと寂しくなる、という、いわば「在の不在」(日下、2017)としての他者であったりする。その中で治療者は常に患者の側に立って、「在の在」としての役割を発揮するのである。
松木 邦裕 (2011) 不在論: 根源的苦痛の精神分析. 創元社.
日下 紀子 (2017) 不在の臨床―心理療法における孤独とかなしみ. 創元社.




2018年5月23日水曜日

解離の本 25


3.  日常生活における治療者としての「キーパーソン」

治療者は常に、患者さんの住む家庭の内外に、治療上大きな役割を果たす人物の存在があることに気づくことがあります。その人物は父母のどちらかであることも、学校の教師、恋人や配偶者、職場の上司などのこともあります。これらの人々は患者さんの行動を間近かに見る機会があり、その異変にいち早く気づく可能性があります。その場合患者さんを専門家のもとに連れていき治療の機会を与え、自らも治療的な対応を取り、状況の改善のために手助けしようとします。また患者さんの思いを代弁して第三者に伝えるなど、治療の協力者として様々な立場から支援を行う人々です。
このようなキーパーソンの存在は、患者さんの孤独感や疎外感を軽減し、他者への信頼を回復させるきっかけにもなります。特に重要なのは、これらのキーパーソンは、患者さんが幼いころ持てなかったであろう理想的な養育環境のやり直しの機会を与えている可能性があるということです。多くの場合患者さんはキーパーソンに対する配慮や遠慮を保つため、その役割は子供人格になったときの親代わり等に限定される傾向があります。そのためにキーパーソンの多くはまるで親や保護者のような気分になり、パートナーを可愛かったりいとしく思ったりするものです。キーパーソンの一部は人をケアしたいという欲求を持っている場合も少なくありません。それが患者さんのニーズに一致する傾向にあります。
ただし患者さんが彼らを頼りにする中で、愛着と依存欲求が高まり、蓄積されていたフラストレーションがその人に向かうこともあります。それが始まると、際限なく要求する交代人格や人格状態が現れ、キーパーソンとなる人物は疲弊し、追い詰められてしまいます。
治療者がこの事態に気づいた際には、要求に応え続けるのではなく、自らの限界を示し、その人が提供できる支援の内容を整理して伝えるよう、キーパーソンに助言することです。患者さんの要求をどこまでも満たそうとする姿勢は、かつてその人が親密な他者との間で繰り返してきた服従的態度の再現であり、彼らの苦しみを追体験させられている状況です。支配―服従の関係性に留まり続けようとする患者さんの心性を健全なものに変えていくために、キーパーソンと協力し合うことが必要です。患者さんは互いに与え合い満足を得るという対等な対人関係を持ったことがあまりありません。キーパーソンとの関係の改善は、患者さんの対人関係に本質的な変化をもたらすのです。

2018年5月22日火曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 4


この「とらわれ」、という言い方が大事なのは、特にこれを無意識的、と断っていない点である。自分でも気がつかないうちに繰り返してしまう行動や言動について、その正体を知ることが洞察である。それが無意識的かどうかについてこだわる必要はあまりない。無意識的、と断り書きを付けると、そこには抑圧された欲動やファンタジーを想定していることになる。しかしそれは無反省に浮かんでくる意識的な思考かも知れない。認知療法ではそれを「自動思考」と呼んでいるわけである。そしてここで重要なのは、その洞察の対象は、客観的な現実や真実であるという保証はないということだ。
ここで改めて洞察とは何か? 先ほどは患者さんが「ああ、そうだったのか!」と納得できるような思考、ととりあえず表現した。これをもう少し正式に言い換えると、ある思考やナラティブが、強いリアリティ(信憑性)を伴う形で得られることと言える。そしてそれがとらわれの存在を浮き彫りにし、それへの対処法を示してくれるようなものである。そのような洞察が得られるプロセスとしては、私は以下のものを考える。

    脳科学的には、幾つかの思考のネットワーク間に新たな結びつきが成立すること
これまで慣れ親しんでいた二つの思考回路に一度連絡路が開かれるとそれは半ば永続的に強化される可能性がある。それは二つの湖の間に穿たれた水路のようなものであろう。
例)
治療者:「お父さんとの関係が上司との間でも繰り返されていますね。」
患者:「そうか、そういう見方をしたことはありませんが、両者はとても似ているきがします。」
    患者の人生をよりよく説明するようなナラティブが提供されること
ある思考が他の思考や体験の意味を明確にしてくれるのであれば、それはそれを示された後は繰り返し頭に浮かび、新たな洞察として成立することになるだろう。
例)
治療者:「あなたの方がむしろ弟さんの関係の犠牲者とは言えませんか?
患者:「そうか、そういう見方もありますね。」
③ 治療者などの「別の主観」から思考が取り込まれること
自分がそのような発想を持っていなかったことでも、それが他者から与えられることが自分のそれまでの体験に新たな意味を与えるために何度も繰り返し反芻され、やがて内在化されることがある。
例)
治療者:「あなたは自分のあるがままを受け入れていいのではないですか?」
患者:「あるがままでいいんだ、という考えそのものを持ったことがなかったんです。」

なお以上の①~③を読むと、互いにかなり類似したものであることに気が付かれよう。これらの3つについては私がやや便宜的に分類したのであり、重複がかなりみられる可能性がある。

治療者ができることは「オブザベーション(コメントをすること)」である

ではこのような洞察に至るためには、治療者からのどのような介入が必要だろうか? 可能性のあるものをいくつか挙げてみる。
              解釈を通して
              直面化を通して
              明確化を通して
              「オブザベーション」を通して
              支持的介入を通して
              現実(仕事や学業上の失敗、上司、同僚からの忠告、アドバイ
 スなど)に直面して

このように列挙したのは、洞察に至る経路は様々なのであり、解釈を通してのみではないということを示したいからである。一つのシンプルな例として、「自分はあるがままを受け入れればいいのだ」という③で例示した洞察を考えてみよう。これは患者さん自身が無意識レベルで自分を否定していたことことへの解釈がなされた結果として至った洞察かもしれない。しかし患者が治療者から受け入れられるという支持的な介入から、この様な洞察を得られることもあるわけである。だから一つの洞察に対して、それに至る技法は沢山あると考えるべきであろう。ここで私はGlen Gabbardのテキストからある表を紹介したい。(図は省略)
 この図の中で左側の群が、これまで私たちが解釈に類する介入としてまとめていたものであるが、その中で私が代表としてあげたいのが、左から二番目にある「オブザベーションobservation」である。ただし表に見られるように、これは日本語訳では「観察」と訳されている。しかし英語でobserve とは、そこにいて観察し、それを伝えることまでも含む。実際英和辞典にはobservation の意味として、3.〔気付いたことの〕所見、見解とある。つまり気が付いたことをそのまま言葉で伝えるというニュアンスがあり、何かを説明しようとしたり,つなげようとしたりする努力をことさら含まないものである。その意味ではobservationの日本語訳としては「指摘」「コメント」という表現が一番近いかも知れない。治療者がobserve するとは、患者に見られる行動や発言や、感情や、治療内でのパターンを単に指摘するだけで、動機や説明には触れないままであっていいのだ。
Gabbard がこのobservation の例として同著で挙げている例は以下の通りだ。
・「あなたのお姉さんについて尋ねたとき、あなたは涙を流されましたね」
・「お帰りの際にあなたはいつも私と目を合わせるのを避けられますね」
・「お父さんに見捨てられたことに私が話をつなげようとすると,あなたはいつも主題を変更なさいますね」
これらはそれぞれがまったく異なる治療場面における治療者の介入だが、だいたい治療でどのようなことが起きていたかは想像できるであろう。そしてこれらのオブザベーションには、直面化や明確化も含まれることになる一方では、あまり解釈という感じではないことに気がつかれよう。解釈とは治療者が最初に答えを知っていて、それを患者に指摘する、というニュアンスを伴っているが、ここに挙げた例はいずれも、それよりはずっと控えめな、治療者の側から気がついたことへの指摘であり、それを問題にするかどうかの一部は患者の側に委ねられているのである。