2017年3月25日土曜日

2017年3月24日金曜日

精神分析とは何か 番外①

少し付け加えた。

この「とらわれ」、というのは大切な言葉です。しかも「無意識的なとらわれ」というところが大事です。この様に精神分析は私たちの日常心理からは隠された部分、無意識部分に向かっているという点はきわめて特徴的といえるでしょう。ふつうのカウンセリングでは、目に見えるような、意識的なとらわれ、精神分析では無意識的な、目に見えない無意識を扱う、という言い方をすればわかりやすいかもしれません。
比ゆ的に言うならば、ゴルフコースでのバンカーのようなものと言っていいでしょう。グリーンに向かって自由に球を打って言いというわけでなく、いたるところにあるバンカーを避けて、打っていかなくてはなりません。打ち方に制約が出てくるでしょう。しかもそのバンカーが打つところからは見えなかったり、いたるところに出没していたら、もっと球を打ちにくい。
 ゴルフの比喩がわかりにくい人のためには、心を自由に走り回ることの出来る原っぱだと思ってください。そこにところどころぬかるみや落とし穴があったら、自由に走り回れませんね。しかもそのぬかるみや落とし穴が目に見えにくいものだったり、気がついたらいつの間にかそこに落ちていて、そのことにも気がつかないような類だったらどうでしょう。決して自由にそこを走り回ることが出来ません。そしてここで自由にゴルフの球を打ったり、原っぱを駆け巡るということが、自由に発想し、自由に行動するということの比喩になっているというわけです。


そのバンカーや落とし穴を見つけていくのがカウンセリングでしょうが、精神分析の場合は無意識的なとらわれ、というのですからふつうはわかりにくいような、本人にもわかりにくいような落とし穴を見つけていくという作業です。

2017年3月23日木曜日

精神療法の強度 推敲 ⑥

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
繰り返しになりますが、私は精神科医ないしは精神療法家として、かなりケースバイケースで治療を行っています。つまり上述のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを小此木啓吾先生は口を酸っぱくしておっしゃっていました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。というのも私は結局はどの強度であっても、ある一定の「心の動かし方」をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。ここで私は「分析的」という言葉を、内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うという意味で用いています。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。
 ある「心の動かし方」はそれ自体が一種の構造を提供しているという側面があると述べました。その心の動かし方にはすでにある種の構造が内蔵されています。ですから時間の長さ、セッションの間隔などは比較的自由に、それも患者さんの都合を取り入れつつ変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造が厳密に守られることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに、治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は治療的柔構造のことを、一種のボクシングのリングのようなものだと表現しました(岡野、2008)。カッチリ決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造は、相撲の土俵のようなものです。足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。そのロープの緊張の度合いを、治療者と患者が共有することに意味があります。
岡野(2008)治療的柔構造-心理療法の諸理論と実践との架け橋.岩崎学術出版社

 このようにボクシングのロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。その中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合もまた、かなり構造化されたものです。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手が「ミットで受けてほしい」、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。いいトレーニングになりました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるはずです。一時間みっちり必要かもしれないし、試合前に5分でいつもの感覚を取り戻すだけかもしれない。しかしここにもたとえば月、水、金の5時ごろから30分ほど、などの大体の構造はあるはずです。さもないと二人とも予定が合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待するでしょう。場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっていることになります。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのミットの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりミットを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くために、あるいは自分のボクシングの能力を誇示するためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。コーチはいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなミットの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。こうして考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、そこに構造があるとすれば、それはコーチのミットの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。

ここである臨床例について話したいと思います。

2017年3月22日水曜日

精神療法の強度 推敲 ⑤

ちなみにこのスペクトラムの概念について一言付け加えるとしたら、それは精神療法やカウンセリングにはほかにもさまざまなスペクトラムが存在するということです。上に示したのは、セッションの頻度に基づいたものですが、他にも一回のセッションの長さの問題があります。これもは、5分、10分といった短いものから、スタンダードとしての50分、その先にはダブルセッションといって90分、100分のセッションまであります。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間のファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターもあります。医師が心理面接の開始五分前に、例えば心理面接の始まる三時の十分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ三時までには心理士さんにバトンタッチできるだろう、という算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても十分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。そして心理士さんは三時十分に始まったセッションを三時半で切り上げるわけにはいかなくなります。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。
それ以外にもたとえば料金の問題があります。一回三万円のセッション(これが実際に存在することを仲間の臨床家から聞いたことがあります)から、保険を使った通院精神療法までがあります。原則無料の学生相談室での面接ということもあるでしょう。あるいは治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、ということにもスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎え入れますが、その事情を一切語らなかったと言います。しかし別の治療者なら少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」と言うかもしれません。
さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそれぞれのスペクトラムを持っていると言えるでしょう。

この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体どこかに収まっていることで、あるいは予測可能な揺らぎの範囲内にあることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。

2017年3月21日火曜日

精神療法の強度 推敲 ④

スペクトラム上の「強度」と実質的な「強度」
 この表を見ながら考えていただきたいことがあります。それはこのスペクトラム上の「強度」はいわば形式的なものであり、実質的な「強度」とは異なるということです。つまり週回でも実質的には「弱い」治療もあれば、二週に一度でも非常に「強い」治療もありうるということです。週回でも非常に退屈でかわりばえのないセッションの連続であったりします。頻回に会う関係は、しかしそこでの親密さを必ずしも保証しません。冷え切った夫婦の関係を見ればわかるでしょう。毎日数時間顔を合わせる関係が継続するうちに、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけです。逆に二週に一度30分でも強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるでしょう。そのセッションで一種の暴露療法的なプロセスが行われた時には十分にありうることです。治療者のアクが強い場合もそうかもしれませんね。ただしその二週間のリカバリー期間も十分なサポートが必要になるでしょう。あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりします。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのです。私の知っているラカン派の治療を受けている人は、20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われることがあるそうです。一日度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ません。でもそれも治療としてある社会では成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となります。

2017年3月20日月曜日

精神療法の強度 推敲 ③

精神療法の「強度」のスペクトラムという考え
そこで私は精神療法における「強度」のスペクトラムという考えを提示したいと思います。これは精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがありますが、どれも精神療法には違いないという考え方です。これは私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの名誉の為でもあります。

 まずは精神療法の「強度」を単純に時間的な観点から考えましょう。つまり高頻度で行われる精神療法がより「強い」という単純な考え方です。それを図示したのが、図1です。縦軸には「強度」が示され、横軸には、セッションの間隔が示されます。一番左端に来るのはフロイトの週650分の強度(仮にこれを10としましょう)の精神分析です。通常の450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいということにしましょう。そしておそらく左端近くには、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言います。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれません。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはなりません。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人の心がけのせいとは言えないでしょうし、「二週に一度なら意味がないから来なくていいです」というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、週4,5回の精神分析を5年ほど受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを受けたり、行ったりしないで、お前に何が言えるのだ」という事になってしまいます。私はもともと非常に精神分析志向の人間でしたし、分析のトレーニング中に、2000ドルもかけて分析用のカウチを木工技師さんに特別発注し、今での私のかさばる財産になっています。まあ、それは余計な話ですね。
 このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておきます。おそらくその強度に関しては、左端の精神分析から、右端の一番弱い精神療法までの右下がりの曲線で描かれていますが、それはあくまでもなだらかです。つまり、週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に1回、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、そこに特別な段差があるとは思えません。それを行っている治療者のメンタリティーは基本的には変わりはありませんし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが少なくとも心の中では保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、ほかの条件が同じならそれだけ治療は効果が薄れていく。やっていて物足りないと思う。そしていわゆる「深いかかわり」は起きる頻度も少なくなっていくでしょう。それはそうです。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行ける旅はありますし、ひょっとしたら非常に印象深いものにもなるでしょう。

2017年3月19日日曜日

精神療法の強度 推敲 ②

 先ず私の立場を表明します。私の立場は精神科医であり、精神分析家であります。まず精神分析家としての私は、週に四回のセッションも、週に一度50分のセッションも実際に行っています。これは精神科医としての仕事とは別に設けられた時間と場所で行っています。しかし精神科医の私の臨床の中では、週一度はとても贅沢な構造です。そして私の週二日の精神科外来のように、8時間の間に30人強のペースで患者さんと会うというスケジュールでは、その中で週一度を維持することには大きな制約があります。そこで私が比較的贅沢に行なえている精神療法は、毎週、ないし二週に一度20分ないし30分です。他の患者さんに対しては、平均して10分、15分以内、時には5分間で診療を終えて次の患者さんを呼び入れなくてはならないという事情がありますから、立場ではかなり無理をしたスケジュールです。
 そしてこの、一回のセッションに50分取れないという事情は、もちろん他の精神科医にも共通している事情ですが、実は臨床心理士についてもいえます。私は心理士さんたちと組んで臨床を行っていますが、それは私の精神科の患者さんの大部分は定期的な精神療法を必要としている方々です。そして彼らもとても50分に一ケースではまわって行きません。心理士さん達には一時間に二人会っていただいています。つまり私の実践している精神科医と心理士の共働では、12週間に一度、30分のセッションというのが、事実上のスタンダードになっています。これは私が知っているもう一つの世界、すなわちトラウマティックストレス学会で出会う精神科医の先生方も話していることです。「通院精神療法では、二週に一度30分が上限ですね」でだいたい意見が一致します。この二週に一度30分、というスタンダードが事実として存在するものの、だれもそれを精神分析的とは呼んでくれないという事情があるのです。
でも私は二週に一度、30分でも大まじめで分析的な精神療法をやっているつもりなのです。もちろんそれは週4回、ないし週1回50分と比べて、かなりパワー不足という印象は否めません。たとえて言えば、精神分析という四輪駆動や、週一度というSUVほどには走れない、いわば軽自動車という感じでしょうか? でも軽自動車でもそれなりの走りはしていますし、精神分析的な治療という道を、それなりにトコトコと走って行っている気がします。私も「それならばお乗せできますよ」と思っているし、患者さんも「それくらいならガソリン代が払えますよ」、と言ってくれるのです。ですから私は軽自動車で多くの患者さんと出会って、それなりに満足しています。
 どうして私はそのように感じるのでしょうか?それは私はその構造いかんによらず、分析的な心の動かし方をし、同じような体験がそこに成立していると考えるからです。このことについてもう少し順序立てて説明いたしましょう。