この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回精神療法序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要がある。
高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を「近似仮説」と呼ぶ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるというが、この仮説が支持されたという結論は出せないとする。すなわち高野自身は「近似仮説」を支持しているというわけではないことは注意すべきである。
この2017年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。山崎はこの「近似仮説」という概念は藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したもの」だとする。(山崎,2024)。つまり精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」という相対的な議論として提示したのである。
もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は「週一回」の独自性を論じる上でフロイトの比喩を取り上げる。フロイトは精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)と言う。そして「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」そこでは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、 Merton Gill の所論について詳細に調べ、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べるが、そこには転移外の解釈、ヒアアンドナウの抵抗に対する解釈が挙げられ、概して「週一回」の難しさが強調される。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性についての可能性を残しつつも、精神分析の中心的な技法である転移解釈を駆使することは設定上難しいという点を強調し、藤山説に概ね沿ったものと言うことが出来るだろう。