2025年5月25日日曜日

レクチャーデイ 強度のスペクトラム ①

 昨年4月に行った分析協会主催の「レクチャーデイ」の発表を文章で提出するという仕事を全く忘れていた。そこでチャット君の力を借りて作成した。前半は以下のとおりである。(チャットによるまとめの絶対的なメリット:タイポが原則的にはあり得ないこと。)


Lecture Day 10回 令和6414日 「頻度について考える : 精神分析と精神療法の共存」

   「分析的な出会い」と強度のスペクトラム


はじめに

精神分析と精神療法の異同については、これまでもさまざまな議論が展開されてきた。その中で「頻度」は特に重要な論点の一つであり、両者を区別する上でも、また共存の可能性を探る上でも不可欠な視点である。

しかし、頻度について議論を深めるためには、それ以前に考慮すべき前提があると私は考える。以下の二点がその出発点である:

1.     精神分析において何が「治癒機序(therapeutic action)」として機能するのかの再検討

2.     精神分析と精神療法の治癒機序は異なるのか、という問い

まず、米国精神分析協会の定義を紹介したい: 「分析的精神療法は精神分析の理論と技法を基盤としているが、頻度は週1回と低く、通常はカウチを用いず座位で行われる。とはいえ、自由連想の使用、無意識の重視、治療者・患者関係への焦点といった点で、精神分析に極めて近い。」

私自身の立場は、おそらくこの定義に近いものであり、以下の観点から整理しておきたい。

精神分析と精神療法には、共通の治癒機序が働いていると考えられる。そのため、両者を本質的に区別する必要はない。この立場は、高野晶先生の「近似仮説」や藤山直樹先生の「平行移動仮説」と親和性がある。
すなわち、精神分析は精神療法のスペクトラムの一形態として理解されるべきである。
条件が等しければ、週4回の頻度が望ましいだろうが、「週4でなければ本物ではない」といった議論は不適切である。
4回か週1回かという頻度の選択は、単に「どちらが優れているか」ではなく、経済的・時間的制約や治療者側の事情などを踏まえた実際的な妥協である。

なお、藤山先生の「平行移動仮説」とは、精神分析の技法や病理論を、訓練分析を受けていない治療者による週1回の臨床実践にそのまま応用可能とする考え方である。

何が「治療的」なのか?——いわゆる「治癒機序」について

 頻度の問題を考察するにあたって、「治癒機序(therapeutic action)」の検討が不可欠である。その代表的な議論として、James Strachey1887–1967)が1934年に提唱した「変容惹起的解釈(mutative interpretation)」がある。これは転移解釈を通じて心的変化を促すプロセスであり、長らく精神分析の中心的治癒概念とされてきた。

Stracheyによれば、
患者は攻撃性などの本能的衝動を治療者に向ける。
その結果として、患者は自己の内的対象と現実の治療者の姿とのギャップに気づき、新たな外的対象として治療者を受け入れるようになる。
このプロセスが積み重なることで、患者の内的対象イメージが修正されていく。
治療者はその間、自らの逆転移を吟味しつつ、情緒的反応を抑制し、解釈を通じて対応する。

この転移解釈モデルが王道とされる一方で、それとは異なる方法論や治療的立場の模索が始まる契機となったのが、いわゆる「週1回」の精神療法実践である。頻度が低くても効果が得られる事例が報告され、精神分析の定義そのものが問い直されるようになった。

メニンガー・クリニックにおける試み

 代表的な実証研究として、196070年代に Otto Kernbergらの主導により、BPD(境界例)患者を対象としたPsychotherapy Research ProgramPRP)が実施された。

● BPD治療において、標準的精神分析と支持的精神療法の効果比較が目的とされた。
● 3群(精神分析/洞察的精神療法/支持的精神療法)に分類し、治療成果の違いを検討。
結果的に、頻度や技法にかかわらず、治療効果には有意差が見られなかった。
洞察によらず変化が生じる例も多く、支持的アプローチにも「構造的変化」が確認された。

この結果から導かれたのは、以下のような結論である:

「すべての治療は常に表出的であり、かつ支持的である」(Wallerstein
治療的介入は状況に応じて、両者の間を往還する(Gabbard
治癒機序としての「転移解釈」だけを特権視すべきではない


2025年5月24日土曜日

週一回 その6

 海外における治癒機序に関する理論

 ここまでで論じた我が国におけるコンセンサス(「週4回は転移を扱え、週1回は転移を観察する」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、そのような直接的な表現に出会うことは、私が調べた範囲ではあまり見られない。

 たとえば海外の精神療法についての文献としてわが国にもなじみ深いGlenn Gabbard の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)を参照してみる。この本では転移についてかなりの個所で述べている。そして力動的精神療法の基本原則(p4)として「患者の治療者に対する転移が主な理解の源となる」と述べるが、その後に「治療過程に対する患者の抵抗が治療の主な焦点になる。」とする。つまり転移解釈に至らない場合には患者の抵抗を扱うべし、というごく一般的な立場を表明しているのである。
 さらには転移の解釈については次のような警句を発してもいる。「原則としてセラピストは転移の解釈を患者の気づきに接近するまで先延ばしにするべきだ。」(ギャバ―ド、2010)「セラピストによって与えられる解釈はめったに劇的な治癒をもたらさない。」しかしこれは精神分析と精神療法の間に区別を設けたうえで後者において特に論じているわけではない。

 ところでGabbard が頻度について触れているところがある。「しかし週一回以下の低頻度では、転移に焦点を当てることは難しくなる(p79)」とも述べている。しかしここは翻訳上の問題がありそうだ。相当する箇所を原書で読んでみる。66ページであるが、まず表出的では2,3回。支持的では週一回あるいはそれ以下であるとし、long-term psychodynamic psychotherapy is extremely difficult to do at frequency less than once a week, because the continuity from session to session becomes disrupted and because it is difficult to focus on transference issues at lesser frequencies. (p66)

Gabbard (2004) Long term Psychodynamic Psychotherapy A basic text. American Psychiatric PUblishing. Washington DC.)

つまりここを読む限りでは、長期力動的は少なくとも週一回だよ、と言っているようだ。「週一回以下の低頻度」はより正確には「週一回未満の低頻度」と訳されるべきなのだ。

週4回未満でも転移解釈を主たる治療方針とする療法などが目に付き、それがいわゆるTFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy. Clarkin, 2007) である。患者と治療者は最初に信頼に基づく関係を構築し、同時にしっかりとした境界を設定する。そして行動パターンや感情や自己感を探索し、それらがその人の対人関係の持ち方にどのような影響を与えているかを検討する。その際TFPに特徴的なのは、患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転医が扱われるとのことである。
このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。このTFPが興味深いのは治療構造が週2回という、週一回を基本とする治療者によっても手の届く範囲の構造と言えるだろう。
 この療法に関するある実証研究では、BPDの治療に関して支持療法とDBTとの比較対象で行われ、TFPではメンタライゼーションの能力がより高まったとされる(Clarkin, et al, 2004)。また別の研究 (Doering et al., 2010) では地元の経験ある治療者よりも症状や心理社会的機能等において効果があったという。
このうち前者においては、支持療法では毎週一回のセッションを行い、転移についてはそれをフォローしマネージするものの明示的な解釈を行わない、とある。それに比べてTFPでは積極的な解釈を行ったという。(興味深いのは、ここで転移の解釈の侵襲性などについて、なにも特に論じていないということである。)

 ここで一つ。週2回までセッションの頻度を上げた場合は、藤山の同様の提言に見られるように、精神分析的な、転移解釈を主軸とする治療を行うある程度の根拠となるのではないか、それでは「週一回」もせめて「週2回」にする努力はしてもいいのではないか? ただしPOSTの中にその様な動きはないようである。

 ともあれ米国精神分析協会も米国心理学協会も、そのHPでうたっているのは精神分析と精神療法がいかに類似しているかである。それは以下のような文章からもうかがえる。「[頻度やカウチの使用など]の違い以外は、精神分析的精神療法は精神分析と極めて近い。つまり自由連想が用いられ、無意識を重視し、患者・治療者関係を重視することである。」(米国心理学協会のHPより)(岡野 2023)それははたして妥当なのか?精神分析と精神療法の差別化についてここまで論じている私たちにすれば、少し拍子抜けという気もする。

岡野 憲一郎 (2023) 精神分析的精神療法の現状と今後の展望 .最新精神医学 28 (3), 195-201.

 「コンセンサス」が海外の文献にみられないのはなぜか?
 

一般に海外の文献では精神分析的精神療法と精神分析プロパーを質的に異なるものと考えるよりは、両者を同質のものとして、あるいは後者を前者の特殊例と見るというニュアンスさえ感じられる(岡野、2023)。それはなぜだろうか。つの理由はこの議論がすでに過去に行われ、一定の、それも我が国の「コンセンサス」とは異なるコンセンサスが得られたからである
 そこに至る経緯をいわゆるメニンガープロジェクトにみることが出来る。そこでは42人の患者を精神分析プロパーと精神療法に分け、後者を表出的療法、支持的療法として分けて詳細な研究が行われたが、そこで精神分析で開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名ということになった。そして分析においては、ヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。
 しかしそれらの治療は極めて支持的な手段である入院を必要に応じて併用していた。この研究をまとめて、Wallerstein は、「ヒアアンドナウの転移が治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。そして議論はむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得ず、そこでは表出的か、支持的か、あるいはその両方かという議論が主たるテーマとなったのである。言葉を変えれば、「週一回」のケースにおいて、どこまでヒアアンドナウの転移解釈のみで有効なのかが問題となっている。決して日本における「コンセンサス」、つまり「週一回ではヒアアンドナウの転移解釈は無理です」という理解は最初からなされていないことになる。さもなくば「精神分析か、支持療法か」という選択肢しかなくなってしまうからである。別言するならば表出的精神療法という治療法が存在を許されて、実際に行われていることが、「コンセンサス」を否定するのである。

 むろん米国において変容惹起性解釈の議論がなかったわけではない。それどころか Strachey により提唱された転移解釈の重要性についての議論は、Merton Gill の「今ここで」のそれについての議論として「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)のであり、「今ここでの転移解釈が絶対的に主要な技法である interpret of the trans. in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」というギルの提言は、メニンガーのリサーチ(PRP)における「信条credo」であったという(Wallerstein p55)。PRPでリーダーシップをとった Kernberg も今ここでのネガティブな転移の解釈こそが治療にとって有効である(そしてそれをしない支持療法は効果がない)と主張していたことも大きく影響していた。しかし結局はあらゆる手法は支持的に流れたというプロセスの中で支持を失ったという感があるのである。また「今ここで』だけでなく過去の出来事にも同様の重要性を見出すべきであるというLeo Stone の論文(1981)もこの流れの追い風になったらしい。このPRPの流れ全体から言えることは、精神分析におけるヒアアンドナウの転移解釈の唯一絶対性ということが証明されず、治療はそれぞれ独自であり、解釈による洞察とともに様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということを示したということである。

  以上の論述から、「コンセンサス」は世界における精神分析の潮流とは異なる路線であると理解せざるを得ない。なぜならいわゆる表出的精神療法は支持的精神療法とともに「分析的精神療法」として立派に存在しているからである。そして全体の流れとしては、表出的精神療法こそが、精神分析の理念を受け継ぐ「精神分析的」なものであり、ストレイチーモデルに従ったものということが出来るのだ。だから精神分析の世界では、分析的精神療法を、精神分析プロパーに準ずるものとして扱っているわけである。こうすることで、週一回の治療でも精神分析の精神は生きているのですよ、と主張が出来る。つまり日本の「コンセンサス」とはむしろ逆のことが起きているらしいのだ。彼らにとってはそちらの方がむしろ「コンセンサス」なのだ。

私はこのどちらの「コンセンサス」に軍配を上げるかという議論はしたくない。ただ事実を述べているだけである。精神分析的な方針を基本的には堅持する表出的な精神療法が生き残る道はしっかり示されている気がする。その一つの例は、すでに述べた「転移に焦点づけられた精神療法 TFP」である。ただ両者の歩み寄りは考えるべきではないかと思う。
一つは(日本の)「コンセンサス」の再考である。「コンセンサス」は転移は扱わわないという前提に立つが、実際はその限りではないということはTFPなどの治療効果についてのエビデンスが示しているといえる。転移は扱えるのであるとしたら、POSTはもうすこしヒアアンドナウに開かれてもいいであろう。もう一つはPOSTに流れる治癒機序が、実は表出的にも、精神分析にも流れている可能性を探る事であり、それはPOSTの独自性へと目を向けることに繋がるであろう。つまりPOSTは精神分析でないもの、精神分析をこえたPOSTであることの意義が示されなくてはならない。


2025年5月23日金曜日

遊びと愛着 推敲  10

  ところでここで Holms が述べる脳の同期化とはどのようなものなのか?

脳の同期化のプロセス

 最近脳の同期化の問題が取りざたされている。二人の人間に何らかの交流をしてもらい、両者の脳波やfMRIの撮像により同期化が見られることが、その両者の交流の性質を反映しているということだが、どういうことだろうか?二人の脳が、電気的につながっているわけでもないのに、脳波の同期化ということがなぜ起きるのか。チャット君にも手伝ってもらい、以下のことが分かった。

まず同期化とは周波数のみならず位相も一致するという現象を言うという。それを「PLV(Phase Locking Value)」という。まるで「脳波の足並み」がぴったりそろった状態なのだ。全く不思議なことだが、なぜそれが起きるのか。例えば二人が一緒に映像を見たり、音を聞いたりすると、きっと位相は合うだろう。ある瞬間に二人が同時に一緒の体験をするからだ。でも会話をしていてもそれがなぜ生じるのだろうか。それについていくつかの仮説があるという。ここからはチャット君の文章を引用する。

① 共有された外部刺激による時間合わせ  たとえば二人で同じ映像や音声を同時に受け取ると、その入力に対する脳の応答タイミングが一致してくる。

② 相互の身体的ミラーリングによる同期 人間は無意識のうちに、相手の仕草・表情・声のトーンを真似ることがある。 これを「ミラリング」「感情的同調(emotional entrainment)」というが、実はこれも脳波のリズムを揃える力があるとされている。たとえば、笑顔で話す相手に自分もつられて笑顔になる。そこでは例えば表情筋の動きが一致するだろう。

③ 心的共鳴(mental resonance)仮説

二人の間に深い共感や理解が生じたとき、内部状態が収束してくるという仮説。たとえば、二人が「今、同じことを“わかっている”」という瞬間。その「わかった!」という内的状態が、偶然にも脳内の同じネットワークを活性化させる → 結果として、同じ周波数帯+同じタイミングで活動が起きる

これは、「意味の共有がタイミングを揃える」という、かなり興味深い逆照射的仮説だと思う。

④ 一緒に何かをすること自体が、共通のタイムスケールを生む

社会神経科学の研究では、共同作業や会話、共感的な視線の共有などが、 共同注意(joint attention)や共同意図(shared intentionality)を生み出すとされている。

これはつまり、二人が別々のリズムで動いているのではなく、「この時間を共にしている」という感覚を持つとき、 そのリズムが徐々に「調律」されていく。この「共にある」という時間的構造が、脳活動にも反映されるのではないか――という考え方である。

2025年5月22日木曜日

遊びと愛着 推敲 9

 精神療法は愛着の問題に向かっている

ここで精神療法は愛着の問題に向かっているということについて述べたい。最初分析の世界ではスピッツやボウルビーは外れ者扱いをされていたことは興味深い。ジョン・ボウルビーは英国精神分析界という立派な出自を持っていて、ロンドンでトレーニングを受けてメラニー・クラインの弟子のリビエールから分析を受けたが、どうしてもクライン理論になじまなかった。彼はどうして母子関係の愛着の問題が精神分析で見過ごされるのか全く分からなかった。動物における愛着行動はまさに早期の母子関係の重要さを証明しているではないか、もっと動物行動学から学ぶべきだ、などと考えたのである。彼自身が幼少時に寄宿舎に入れられて、母子分離のつらさを身をもって体験した人だったということも大きい。 しかし実は全く同じことを考えていたウィニコットなどは、クラインやそのほかの精神分析の大御所に忖度して、「ボウルビーのような存在は迷惑だ」などと言っていたのである。そして愛着理論はその後、メアリー・エインスワースやメアリー・メインといった精神分析とは関係ない研究者たちの手を経て、分析から離れていった。さらに一般心理学、実験心理学のフィールドで極めて盛んに論じられるようになったのだ。

 さて精神分析の世界では、人間がいかに変わるか、心の構造的な変化を起こすかについて、そこに転移や解釈といった、治療者と患者の間に生じる力動と、それの知的操作により得られる洞察という、いわば認知的なプロセスが重要であるという議論が盛んにおこなわれた。しかしその限界がいろいろ検証され、同時に生まれた米国の関係精神分析の流れにより、洞察よりは関係性、ということが叫ばれるようになった。つまり治療者が患者にどのような知的な解釈を伝えるか、ではなく、患者とどのような関係性を持つか、の方が重要だという機運が高まってきたのである。 こうして精神分析でも二者関係の情緒的なつながりの重要性ということが叫ばれるようになった。これは早い話が治療者患者の関係を母子関係になぞらえることになるが、実は転移の解釈という文脈にも、その転移自体が養育状況に似た深い情緒的な関係性の中で生じるという議論があったことは興味深い。ただフロイトも愛着段階については論じなかったこともあり、エディプス期以前の議論には抑制がかかっていたことも確かである。

さてやがて精神分析と愛着理論がいよいよ繋がるわけであるが、そこには二人の人間が関係していた。彼らにより愛着の問題は精神分析の舞台に引き寄せられたのである。
一人はアラン・ショアである。彼の登場により、愛着がうまく行かなかったことでどのような精神のダメージが生じるか(いわゆる「愛着トラウマ」)について脳科学的に詳細に論じられることとなった。そして何よりも二人目のピーター・フォナギーの登場である。彼はメンタライゼーションの理論を提示したのだが、彼のすごいところは愛着の問題が精神の発達の根源にあることを見抜き、それをウィニコットの理論を引きつつ論じたことにあった。メンタライゼーションは非常に巧妙に、ウィニコット理論と愛着理論と、愛着トラウマの理論を結び付けたのであった。

最近では「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動や関係性の世界の保障 validation を重んじるべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえられている。

2025年5月21日水曜日

週一回 その5

 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでの我が国の「週一回」の議論は、ある一定の学問的なレベルに至っていることは明らかであるものの、それはある限定された前提に基づくものということが出来る。そこでは治癒機序として基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるという立場に立つのだ。そしてそこでの「コンセンサス」、すなわち「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」の根拠としては、週4回という治療構造では「供給が十分」であり、「週に一度のセッションではそうではない」(2023, p.67)ため、週4回では容易に転移の収集が出来、それを扱うことが可能であるものの、週一回ではそれが難しいということである。

 ここで二つ問題をあげるとしたら、まず第一には、この「週4回では転移解釈が可能で週1回では難しい」という線引きはやや恣意性ではないか、という点である。もちろん「コンセンサス」の内容は、一般的な傾向としては言えるかもしれない。ただし転移の集積は週4回という設定を設けることで自然と生じるのかと言えばそうではない。週4回でも患者の抵抗が大きく情緒的に深まらずに疎遠なままの関係もあれば、週一回でもより充実した深い関係性が築かれることもある。しかしこの議論に立ったとしても、「週1回」で転移が扱えないという結論は導かれず、せいぜい「より難しくなる」という表現の方が妥当であろう。そしてもしPOSTのように「転移をそもそも扱わない」という方針を最初から取るとしたら、そこでは数少ないが転移が扱えるような治療状況を切り捨てることになり、大切な治療の機会を失うことではないか。むしろ妥当なのは、週何回会うかに関わらず、転移の収集の程度を見ながら、それを扱うかどうかを判断することであろう。岡田の砂金の比喩を用いるならば、たとえ金の鉱脈の中心(週4回)ではなく周辺(週1回)でも、砂金が存在する限りはそれを収集された場合は、それに応じて分析的な治療を行うことが出来るのであろう。それは最初から砂金を探さないという立場とは異なる。

 ただしこの第一点目は、「コンセンサス」への決定的な反論とはならないであろう。それを相対的なものとして割り引くならば、「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」は依然として妥当であると言えるからだ。
 しかしここでいう恣意性、ないしは蓋然性の問題は様々な形を取りうるという点も付け加えておきたい。そもそもフロイトが週6日で患者と会っていたことを考えると、週4回はすでに「薄まって」いるはずだが、その議論はなぜか乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになったが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。(個人的には私も賛成である。)するとますます「週4回とそれ以下」という線引きは相対的、恣意的ということになりかねない。

「コンセンサス」の第二の問題は 数十年前に提唱された Strachey の提言を現代まで持ち越している点である。現代の精神分析においては、治癒機序の議論も多元的になりつつある。ヒアアンドナウの転移の解釈のみが治癒機序であるという考え方は1970年代以降メニンガーにおけるPRPの結果を受けて大きな再考を余儀なくされてきた歴史がある。それを現在の議論にそれこそ「平行移動」して論じることには問題があろう。この点については、以下の章で再び扱うことになる。


遊びと愛着 推敲 8

 あらゆる精神療法は遊戯療法である

このテーゼがますます最近意味を持ってきているのは、愛着の問題が注目を浴びているからだ。人間関係の基盤に、愛着の形成やその不全の影響が考えられるようになって来ている。そしてその関係でたとえば「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動的で関係性の世界の保障 validation を重視すべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえる。なぜこれが重要かといえば、じゃれ合い(1)で獲得されていたはずの相互性が治療場面で問われるからだ。それが基盤にないと出会いやふれあい、さらには二者関係としての治療関係は成立しないだろう。しかしこれは従来の精神分析的な考え方とはあまりに異なるものというべきかもしれない。

じゃれ合いを通して何が成立するか

何よりも不思議なのは、相手が傷つけてはいけない自分になること、そして場合によれば相手は自分を犠牲にしても守るべき存在となること。つまりは愛他性の獲得となること。私がこれを愛着だけでなく、じゃれ合いにその本質を求めているのは、愛着はなんとなくそれが「静的」なニュアンスを伴うからだろうか。愛着形成により人は他者を信頼して、自分の生きる意味を与えてもらう。CPTSDではそれが不全となり、自分の価値を持てず、相手とかかわることが出来ない。じゃれ合いはこの一見静的なプロセスの中で実際に生じている現象を描いているからだ。


2025年5月20日火曜日

遊びと愛着 推敲 7

 昨日の続き。

動物どうしのじゃれ合いはきょうだいとの間でも、番う相手との間でも見られるようになる。そしてそれはラボのケージに入っているラットと人間との間でも再現される。こうしてじゃれ合いは科学的な研究対象となっているわけだ。
そこで研究者たちが発見したのは、それがラットの生後何週間かの間に見られること、そしてそれが強烈な快感を及ぼすらしいこと、そしてそれが適応的であるらしいということである。それはじゃれ合いを経た動物がその後ストレス耐性を得て、不安が軽減されるという実験結果から推察されることであり、そしてそこにはじゃれ合いの幾つかのルールないし規則性が有ることも分かった。例えば交互性などである。つまり一方的な追っかけ役、と言うのはなく、だいたい均等に、やって、やられてを繰り返すのであり、だからこそ快感なのであろう。反転現象こそが面白さの源泉なのである。

じゃれ合いのグラデーション

そこで「遊戯療法」に少し近づく。人間においてもじゃれ合いは同様に適応的ではないか、という仮説のもとに研究が進められているが、どうやらこちらの方はもう少し込み入っている。子供の親とのじゃれ合いはしばしば子供の暴力性と結びつくという。特にネガティブな感情が伴ったり、親の優位性が保てなかったりする。このことから仮説として浮かび上がるのは、じゃれ合い、ないしは遊びのグラデーションである。二種類を考えたら、それぞれのニュアンスや意味あいは違って当然だからだ。

じゃれ合い(1)

まず生直後の母子間のじゃれ合いは、愛着の段階で生じる。そこでは最初は力の差は絶対であり、そこでのやり取りはおそらく子供が将来子育てをする際に役立つことを学ぶ。つまりは対象を自分の一部とみなすという体験である。子は親を思いやる。つまり親は子供に同一化する。子供は同一化される体験を有するが、同時にその親を本気には攻撃しない、つまり「じゃれ合う」という体験を有することで、親に同一化するという体験を持つ。するとそれは自分が親になった時に子を思いやる(同一化する)体験の素地となるはずだ。あるいは性愛性とも関係する可能性が有る。その場合は少し違った形での同一化であろうが。ともかくも相手を同一化の対象とみなして接するというプロセスが、このじゃれ合い(1)だ。

じゃれ合い(2)

その後のじゃれ合いは思春期に至るまでに生じ、相手を思いやるというレベルと相手を仮想敵ないしはライバルとみなすレベルの両方がまじりあう段階になる。それは最初はそれまで愛情を注いでくれた親からの手痛い扱いやあからさまな攻撃性の表れの形をとり、子はそれを自分が独り立ちするよう促されていると受け取って親元を離れるかもしれない。またきょうだい通しの間のかなりラフなじゃれ合いは、実際に狩りの練習の意味を持つかもしれない。そこにはいじめに近いものも含まれよう。そこでは自分の攻撃性の限界を試し、それが発揮された際の効果を見極めるという意味を持つ。これが重要なのは、実際の狩りでは自らの攻撃性は十分統制されていなくてはならないからだ。狩りの相手はおそらく憎しみの対象では必ずしもない。むしろ感情すらない「モノ」扱い。最小限の力の発揮により仕留めるべき相手なのである。余計な感情の暴発はかえって命取りになりかねない。これは例えばボクシングのスパーリングや実際の試合、武道における組手や試合に相当するかもしれない。
このように考えるとじゃれ合いは攻撃性や性行動の練習、というよりは、よりニュアンスを持ったものとして理解されるべきかもしれない。性行動の方はともかく、攻撃性は、オスどうしのメスをめぐる争いと、捕食のための狩りという二種に分かれるべきであろう。じゃれ合いはその予行演習を行っているのだ。

ともかくもじゃれ合いは生直後の、愛着に含まれ、母親との間で行われるものから、その後のきょうだいを通して行われるものまでにグラデーションがあると考えるべきであろう。すると前者は必須のもの、子育てに必要なもの、後者は他の個体の脅威となるべきもの、あるいは狩猟に用いられるものという意味を持つのだ。


2025年5月19日月曜日

遊びと愛着 推敲 6

 「遊びと愛着の推敲」は6まで来たが、もともとの文章はここで終わっていた。つまりこれ以上は推敲するものはないので、本来は「遊びと愛着8」として再開する(つまり推敲する前の文を書き進める)べきだが、もうこのまま推敲で行ってしまおう。

まず原題を思い出しておこう。「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

これまで考えてきたことを振り返ってみる。「じゃれ合い(RTP)」は人間を含めた動物レベルで、特に哺乳類で顕著にかつ普遍的に見られる現象である。それは感情を持つ生命体が育つうえで最初に通る段階だろう。あらゆる動物が他の個体とのかかわりあいの中で生きていく以上、その基礎を作る段階の通過が必須となると考えられる。そして私たちにとって極めて印象深いのは、この時期に成立した関係性は半永久的だということである。 この時期に人間が養育者として接した動物はおそらく死ぬまでその人間に強烈な愛着を示す。特に驚くべきなのは、人と人との間のそれをはるかに超えたレベルでの関係の深さである。例えば遠くから「育ての親」である人間を見つけたライオンは、まるで磁力に魅かれる砂鉄のようにその人に引き寄せられて駆け寄り、飛びかかる。もちろんライオンにとってはその胸に飛び込んでいるつもりだ。そしてそこでは身体的な接触はある種の決定的な意味を持つ。それは人と人との関係以上でさえある。(成獣となったライオンとその育ての親である人間との間で見せるような感動的な再会のシーンを、人間の親子が見せることなどあるだろうか?)

ここでの特徴は生後しばらくの間に生じたであろう身体的な接触の影響の大きさであり、そして再会の際もその身体接触が、大きな快感とともに求められ、成立することである。ここで私たちが興味深く感じるのは、例えばライオンのように、見知らぬ人間には攻撃性を向けるであろう、そして私たちがその意味で最も恐れの対象となるべき成獣が、まるで子供の様に人間にじゃれつき、甘える姿である。そう、ライオンが自分の何分の一ほどの大きさになった人間に(見かけ上)襲い掛かり、戯れようとするのはまさに「じゃれ合い」の再現といえる。そしてその時はライオンは爪を肉球の下に格納する。(正確に肉球の「下」かは知らないが、あくまでもニュアンス、である。)
じゃれ合いでもし相手を傷つけたとしたら、その痛みは自分の痛みになってしまうはずだ。つまりライオンは相手に同一化し、「共感」しているのであるが、どうしてそんな複雑なことが成立するのだろうか。私たち人間は共感がいかに複雑で難しく、人間でさえもしばしばそれを十分に発揮することが出来なくなることを知っている。しかしその極めて複雑なことをしない限りは動物は子供を育てることが出来ない。だからなのだろう。さもないと魚類のレベルで飢えをしのぎながらメスによって岩肌に植え付けられた卵に新鮮な海水を送り続けるオス(何の魚だったっけ?)や、冷たい風に耐えながら卵を温め続けるなんとかペンギンのような芸当は出来ない。
こう考えると動物の親たちは、「大きな思いやりを有している」というよりは、脳がそれを自分の一部として認識するのはないかと思う。自分の身を守ることと、子孫の身を守ることは、生物学的に差が生じないような仕組みが成立しているのだろう。
最近脳の同期化ということが言われ、「他」と「自」については脳で興奮する部位が違うと言われているが、そうなるとじゃれ合いの対象はそもそも「他」としては認識されないのではないか。といって「自」でもなく、おそらく「他」と「自」の両方が共鳴するような対象となるのではないか。