2025年5月13日火曜日

週一回 その3

 この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回精神療法序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要がある。

 高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を「近似仮説」と呼ぶ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるというが、この仮説が支持されたという結論は出せないとする。すなわち高野自身は「近似仮説」を支持しているというわけではないことは注意すべきである。
 この20
17年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。山崎はこの「近似仮説」という概念は藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したもの」だとする。(山崎,2024)。つまり精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」という相対的な議論として提示したのである。

 もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は「週一回」の独自性を論じる上でフロイトの比喩を取り上げる。フロイトは精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)と言う。そして「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」そこでは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
 岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、 Merton Gill の所論について詳細に調べ、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べるが、そこには転移外の解釈、ヒアアンドナウの抵抗に対する解釈が挙げられ、概して「週一回」の難しさが強調される。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性についての可能性を残しつつも、精神分析の中心的な技法である転移解釈を駆使することは設定上難しいという点を強調し、藤山説に概ね沿ったものと言うことが出来るだろう。

2025年5月12日月曜日

週一回 その2

  2014年の会長講演の中で、藤山氏の「平行移動仮説」(藤山、2015)という用語が示された。藤山は週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(Strachey)などが、そのまま(平行移動的に)週一回の分析的治療で扱うことが出来るという考え方で、基本的には藤山説はこれを否定するという形をとっている。

 藤山氏はいう。「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(2024,p.60)しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。その意味で「平行移動仮説」は棄却されるというのが藤山の趣旨だ。

 藤山氏の論文を読むと結局は週一回の分析的な治療はできれば避けるべきだという主張であることがわかる。それは経験を積んだ精神分析家がより注意深く扱うことによってはじめて外傷的とならずに治療的となりうるからという趣旨からであるが、藤山氏は週一回の独自性や存在意義については特に言及はない。

藤山直樹氏の主張にさらに立ち戻るならば、彼はこの「週一回」の議論に関連してこれまで2012年、2015年、2016年、2019年の4本の論考を発表している。

藤山直樹(2012)精神分析的実践における頻度一「生活療法としての精神分析」の視点.精神分析研究,56(1);15-23.
藤山直樹・妙木浩之(2012)セッションの頻度から見た日本の精神分析.精神分析研究,56(1);7.
藤山直樹(2015)週1回の精神分析的セラピー再考.精神分析研究,59(3);261-268.
藤山直樹(2016)精神分析らしさをめぐって.精神分析研究,60(3)i301-307.

藤山直樹(2019)関係性以前の接触のインパクト:週1回セラピーにおける重要性.精神分析的心理療法フォーラム,7;4-9

これらの論文の中で一つ興味深いのは、藤山氏は「精神分析的実践における頻度」(2012)において、週2回は、週一回より週4回の精神分析に近い、と述べていることだ。「ある意味で週2回は、週一回より精神分析の方に近いように感じられる。単に量的な面で言えば、圧倒的に週一回に近いと感じられるだろうが、私の実感ではそうではない。」(p.20)。つまり初期には藤山氏は週4回 VS 週1回という対立軸よりは、週二回以上 VS 週一回という対立軸を考えていたということになる。
さて藤山氏は週4回以上の精神分析のプロセスを、患者にとってある種の特別な体験であり「人生の一時期、覚醒時と睡眠時を丸ごと巻き込む」「ある意味『生活療法』なのである」(2012, p.18)とする。そして「[分析家が]6日間の社会生活を送る患者を見る視線は、ひとりの大人を見る視線であり、それは明日会う患者を見る時の子どもを見る視線とは違う。」述べる(2012,p.20)。そして「乳児的部分が十分に抱えられている設定においては、患者の心の中の関係性と今ここでの患者と分析家の間の関係性はスムーズに交流しやすい。同じ関係性が連想内容と「今ここで」と同型の反復を持つ。それは相当に病理が重い患者でも部分的には起きる」(2024、p64)とする。


 私は基本的にこの藤山氏の記述に好印象を持つ一方では、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることがあるのかという疑問も抱く。たとえば週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」とはなかなかならないかもしれないのだ。

もちろんそのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないから、と言えなくもないだろう。

 藤山氏の「供給と剥奪のリズム」という考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点であるが、乳幼児と違って私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは感じられない。それは例えばボーダーライン心性にある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合に起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事で身を引き裂かれるような思いをすることはない。内的対象に移行してくれるのだ。勿論目の前の誰かがこれから二度と会えないという状態で去っていくという場合なら別だが、ふつうは心の中の対象像にスムーズに心を移行させることが出来るのだ。


 藤山氏はさらに「精神分析らしさ」のある臨床素材を語り合う場合には、「精神分析もしくは精神分析的セラピーを中心とした訓練を十分に受けた経験のあるセラピスト」による治療であることが必要であると主張する(2016,p.29)。

 藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、「週一回」の治療はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には「週一回」の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そして精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。

 この藤山氏の議論については山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成-変容性解釈の第一段階再考」(2024)という論文でさらに考察が加えられている。山崎氏は Strackey の理論が Melzer(1967)や Caper(1995)飛谷氏(2010)などにより継承されてきた経緯について説明している。彼らの議論によれば転移の自然な集結には治療者の側が週4回という精神分析の設定を主宰することが前提となり、週一回ではその議論は成り立たないとする。たしかにMeltzerは精神分析によるコンテイニングにおける安堵と週末に生じる分離の衝撃の二つのプロセスのリズムについて論じているとされ、藤山の論述に近いことがわかる。これらの論者が週一回に特に触れていず、その場合はこのリズムが成立しないと言ってはいないが、藤山理論を支持する傍証と言えよう。 


2025年5月11日日曜日

パニック推敲 その3

  パニックや不安を抱える患者への力動的なアプローチはこのような認知的なレベルでの治療を除外するものでは決してなく、むしろそれを行う治療者との関係性を重んじ、また治療作業が安全に行われるような場を提供することを心がける。私はかつてCPTSDの精神力動的な治療として以下の幾つかの項目にまとめたが(岡野、2021)、それはパニックと不安の力動的なアプローチにも概ね当てはまると考え、以下にそれを示す。

1.治療関係の安全性を確保し、それが基本的には癒しを与えるものとなることを心がけること。

2.トラウマ体験に対する治療者側の中立性を守ること。

3.愛着トラウマの視点を常に保つこと。

4.解離の概念を重視し、それが治療場面で立ち現れる可能性を常に念頭に置くこと。

5.関係性や転移、逆転移の視点を重視すること。


 これらのうち特に1と3に関しては、治療関係そのものが愛着トラウマの再現とならないような安全性を保障するものとして考案される。そしてそれは現代の精神分析において提唱されている「愛着を基盤とした精神療法」の基本指針に概ね沿ったものである。この精神療法を提唱するJ.Holmes は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における「変容性を持つ瞬間 mutative moment」 に重大な影響を及ぼすとする。そしてそのために治療態度としての徹底した受容 radical acceptance を重視する。それは患者の情動的な関係性の世界のvalidation を解釈に先立つものと考えるからである。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の連結を促進すると考える。治療者に必要なのは sensitivity であり、それにより愛着関係に類似の環境を形成することと言えるであろう。

 ちなみに以上の治療方針のうち5.に相当し、精神療法の中でも葛藤モデルに基づき、特に怒りやネガティブな情動との関連に積極的に光を当てる試みも見られる。最後にその様な立場からのアプローチについて紹介しよう。


Milrod らの「パニックに焦点付けられた力動的精神療法」

  

(中略)


まとめ

  本稿では精神分析的・力動的な立場からのパニック・不安の理解について示した。パニックや不安は複雑な病態であり、またそれを扱う精神力動療法も極めて複合的なものであり、やや議論が錯綜した感がある。しかし現在の精神分析が脳科学や愛着理論を取り込んだグローバルな視点からパニックや不安に取り組んでいる事情はある程度示せたかもしれない。 


2025年5月10日土曜日

パニック推敲 その2

 パニックや不安への力動的なアプローチ

 現代における力動的なアプローチに関しては、治療者は、これまで述べた脳生理学的なメカニズムを理解し、患者の生まれ持った気質や患者の体験するパニックや不安の引き金や遠因となる様々なストレス因やトラウマ記憶について把握する必要があるだろう。その上で当面は現実の生活において生じるパニックをいかに回避するか、あるいはその症状をいかに軽減するかという具体的な対処を求められることになる。
 その際現在の精神医学においてはCBTや薬物療法が主流と考えられることは十分理解できる。薬物療法は患者において過剰に働いているタクソンシステムに対して薬理学的に働きかけるという、直接的かつボトムアップ的なアプローチと言えるであろう。また暴露、反応予防、リラクセーショントレーニングも同様に、扁桃体の記憶システムに保存された無意識的な連想 unconscious assotioation の条件付けを弱めるような働きを有するという(Cozolino p.248)。

 しかしパニックや不安を抱えた患者の力動的なアプローチには、海馬―皮質系のロカールシステムに働きかけた、トップダウン式の治療の併用が必要となる。そしてそこにはCBTやストレス免疫療法を含めたあらゆる言語的な介入が含まれることになる。

 力動的な介入には欠損モデルないしはトラウマモデルに基づく考え方が必要であることはすでに述べたが、そこにはその人の生来の気質や幼少時の愛着その他の養育上の問題、そしてその後の人生におけるストレスやトラウマの影響を考える必要がある。
 もしパニックや不安がかつて体験したトラウマや心的ストレスに関係していることが比較的明らかな場合、それらの記憶のフラッシュバックやそれが誘因となりパニック発作が生じている可能性がある。その際その過去のトラウマをいかにあつかうかが臨床上重要な治療的課題となる場合が多い。ただし治療者はひたすら患者の過去のトラウマ記憶を扱えばいいかと言えばそうではない。トラウマ記憶の不用意な扱いは再外傷体験を生み、フラッシュバックの頻発を生むかもしれない。しかしトラウマ記憶を回避することだけが望ましいかと言えばそうではない。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないという問題である。そしてそのためには上述のトップダウン的なアプローチもまた重要となるのである。 

 幼少時の愛着の問題が見られる患者の場合は、力動的なアプローチはより錯綜したものとなる。そこでは愛着トラウマに関連した棄損された自己イメージや対人関係上の問題が扱われることになるからだ。そしてそれはいわゆる複雑性PTSD(以下、CPTSD)における「自己組織化の障害」に対するアプローチに相当すると考えることが出来るであろう。


(以下略)


2025年5月9日金曜日

パニック推敲 その1

 精神分析的・力動的な立場からのパニック・不安の理解 

はじめに


 本稿は精神力動的な立場からパニック・恐怖と不安の理解と対応について論じる。なお本号で並行して寄稿される認知行動療法、森田療法、ポリヴェーガルの立場との違いを明らかにすることも求められている。

 まず最初にこの論考のタイトルを「精神分析的・力動的 な立場から」とした理由について述べたい。現代の精神分析はトラウマ理論、愛着理論、脳科学等の様々な分野を包摂する傾向にあり、それはより広く精神力動学 psychodynamics と呼ぶべき分野と言える。精神力動学は「生物学的心理的社会的」という広い概念であり、フロイトの精神分析理論に代表される葛藤モデルには留まらず、いわゆる欠損モデルないしはトラウマモデルをも含みこむ(Gabbard p.4)。本稿のテーマであるパニックや不安はまさにそのような包括的な立場からとらえるべきものであると考える。


フロイトの不安の概念

 精神分析の祖であるS・フロイトは不安について極めて詳細に論じたことが知られるが、それは主としてリビドー論に基づくものであった。すなわち私たちの持つ性的ないしは攻撃的な本能が精神の働きの根源にあり、それが心の上位の部分(超自我)からの干渉を受けることにより生じる葛藤が不安の本体であると考えた。その意味では不安は無意識的な葛藤の存在を知らせる好ましい兆候とみなされていたのである(Sarwer-Foner, 1983)。フロイトはまた不安を発達論的に分類し、超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、分離不安、迫害不安、解体不安などを見出した。これらの不安は臨床上しばしばみられるが、多くの場合はこれらの幾つかが複合した形をとると考えられる(Gabbard, Nemiah,1985)。 


パニックや不安の生理的なメカニズム


 フロイトの時代の脳はまだブラックボックスに等しく、不安の理論も極めて大胆な仮説の域を出なかった。それから一世紀が流れる中で、パニックや不安についての脳生理学的なメカニズムの理解に関して長足の進歩があった。しかしそれでもストレスや葛藤が不安やパニックを生み、そのプロセスは基本的には無意識レベルで生じる、という理解の大枠は変わってはいない。

 現代の脳科学ではパニックや不安については、それらに関与する二つの神経ネットワークシステムにより説明する(Cozolino,2002)。それらは扁桃体のネットワークによる「タクソンシステム」と、海馬―大脳皮質ネットワークによる「ロカールシステム」である。外界からの知覚的、感覚的な刺激が視床で処理されると、これら二つのネットワークが発動するのである。

 タクソンシステムにおいては扁桃体は視床からの刺激に含まれるある種の危険性に即座に反応して、青斑核等を通じて全身に逃走・逃避反応に備えるようアラームを伝える。この過程は無意識レベルで生じ、生体の安全を守ることが第一の目的であるために、多くの過剰反応を含む。例えば森を歩いていて上から長い物体が降ってくると、それを蛇などの危険物と察知して飛び退るなどの反応を起こすのである。
 他方の「ロカールシステム」は刺激に対してワンテンポ遅れて意識レベルでの処理を行う。すなわち刺激の内容の理解や過去の記憶との参照が行われ、上記の例では「なんだ、よく見たら木の枝ではないか」と認識することで扁桃体の暴発は抑制されることになる。

 私たちの日常においてはこれらの二つのシステムがうまく協調することでストレスへの対処が行われているが、生下時は扁桃体が機能するのみで、ロカールシステムはまだ機能していない。そのためにタクソンシステムによるアラームが生じた際には母親がそれを鎮める役割を果たすことになる。そしてその母親の機能が果たされない場合には、乳幼児は初期の不安反応を圧倒的かつ全身体的に体験することになる。しかしそれは大脳皮質に記憶としては保存されず、後になって刺激により突然立ち現れることになる。近年アラン・ショアにより定式化された「愛着トラウマ」においては、二つのシステムの乖離が生じることで、のちにパニック発作等の不安症状を生み出す素地が提供されることになる。

 愛着トラウマは後になってロカールシステムが機能するようになっても、そこに関与する海馬にも深く影響を与えられることが知られている。海馬はストレスホルモンであるグルココルチコイド(以下GC)の受容体を有し、ストレス時に高濃度のGCを検知するとネガティブフィードバックをかける役割を果たす。しかし海馬自体がその高濃度のGCに晒されることによりダメージをこうむり萎縮することが知られている。さらには不十分な養育等の影響で海馬の容積が小さい人がPTSDになりやすいという研究もあり、ストレスと海馬の萎縮との因果関係は双方向性であることが示唆されている。(養育が不十分な場合には、子供はストレスに弱く海馬のGCのリセプターも少ないということがラットの研究などで知られている(Cozolino, p253)。

 このようにパニックや不安の生じるメカニズムには幼少時の愛着の段階における養育が大きな影響を及ぼすことが分かっている。ただし子供の側が持っている生来の気質が関与している場合も考えられるであろう。  ジェローム・ケーガンによる研究では、パニックの患者は子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(Gabbard, p264)。

 このような愛着段階での問題のみならず、その後の人生におけるトラウマやストレスもパニックの発症に深く関与していることが知られている。実際にパニックの患者の多くはその発症に先立つ何か月かにおいてストレスフルな人生上の出来事を見出すことが出来(DSM‐5‐TR,p244)、特に親との死別が関係しているという(Faravelli and Pallanti, 1989)(Gabbard, p.263)。またある研究は患者がより多く両親からの離別や死別、ないしは早期の母子分離が関係していることを示しているという(Milrod et al. 2004))。


2025年5月8日木曜日

週一回 その1 

 これまでの「関係論とサイコセラピー」を今回から「週一回」と改名して引き継ぐことにする。

はじめに

 この論考は我が国の精神分析学の世界において過去10年余り継続的に議論が行われている、「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、新たな視点から考察を加えることを目的としている。

 このテーマについての議論は当学会で大きな盛り上がりと学問的な進展をもたらしている。その流れを俯瞰した場合、そこに様々な議論が存在するものの、一つの方向性がみられる。それは精神分析がもたらす治癒機序について、いわゆるヒアアンドナウの転移解釈が最善のものであることであり、それは週4回以上の精神分析を前提としたものであるということだ。したがって週一回の精神療法においてはそれを十分に治療的に扱えないという考え方である。その議論そのものは一貫し、整合性のある議論と言える。しかし他方には、精神分析理論を学び、その影響を大きく受けた治療者が行う精神療法は、その多くが週一回ないしはそれ以下の頻度で行われているという現実がある。そこで転移を治療的に扱うという精神分析的な手法の有効性が制限されることは、非常に残念なことではないだろうか。
 現代の精神分析は多元的であり、治癒機序に関しても様々なモデルが提案されている。その視点から、海外の文献を参照しつつ、週一回の精神療法における転移の扱いについての妥当性について検討を加える価値があろう。


「週一回精神分析的サイコセラピー」をめぐる議論

「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関しては、それを包括する内容の学術書(1)が昨年出版され、またそれと密接な関係にあるいわゆる精神分析的サポーティブセラピー(いわゆる「POST」、岩倉ほか、2023)と略記する)という試みの存在も見逃せない。我が国における若手の精神分析的な臨床家たちが一つのテーマについての議論を重ね、一つの流れを生み出していることは非常に頼もしく、また心強い動きである。
岩倉拓ほか著(2023)POST 精神分析的サポーティブセラピー. 金剛出版.
高野晶、山崎孝明編 (2024) 週一回 精神分析的サイコセラピー. 遠見書房.

「週一回サイコセラピー」(以降は「週一回」と略記する)の流れについては、実は「週一回精神分析的サイコセラピー」に詳しくまとめられている。「週一回」の議論の火付け役としての役割を果たしたのが、もと精神分析学会長の藤山直樹氏である。藤山氏は2014年に精神分析学会の会長を退く際の「会長講演」で、週4回以上のカウチを用いた精神分析による治療は、週一回の精神療法とは質的に異なるという点について論じた。この背景にあるのは、1993年のいわゆる「アムステルダムショック」という出来事であり、それまでは我が国では「週一回」がほぼ精神分析とみなされていたという背景がある。その後は一方では週一回の精神療法を週4回の精神分析とは異なるものという認識が生まれたものの、この事実に対する「見て見ぬふり」(山崎、2017)が存在していたとされる。藤山氏の講演はこの点を正面から取り上げたのである。


(以下略)


2025年5月7日水曜日

遊びと愛着 推敲 3

ここで遊びに関して一番エビデンスを与えてくれる動物実験を紹介しよう。ベルリンのフンボルト大学の研究チームは、ラットの脳内に「笑いと遊び心を制御する神経回路」を発見したと報告した。(「ナゾロジー」のサイトから)https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/130792#google_vignette 

ラットはとにかく遊び好きらしい。youtube でも人がラットと遊ぶ動画がたくさん出てくる。私たちはペットの犬や猫が遊び好きであることはよく知っているが、ラットも相当の遊び好きであり、実験者とキャーキャーと声をあげて騒ぐという。しかし人間の子供が遊ぶときキャーキャーというが、ラットのそれには馴染みがないのも無理はない。なぜならラットの嬌声は高周波の超音波レベル(50~55KHz )で、人には聞き取れないからだ。
 それはともかく研究者はラットの実験を通して、遊びが生物に共通した起源をもっているのではないかと論じる。しかも遊んでいるときは中脳水道周囲灰白質(PAG)という快感に関係する部位が興奮する。つまり遊びが快感を呼び起こすのだ。
さてラットが特に好むのが、いわゆる「喧嘩ごっこ」、後に述べるじゃれ合い(rough and tumble play) であり、それは偽りの攻撃と偽りの防御を交互に演じることになる。そしてもしラットのPAGを破壊すると、くすぐられても声をあげず、遊びに興味を失ってしまうのである。
以下の論文をもう少し読んでみよう。
Siviy SM. A Brain Motivated to Play: Insights into the Neurobiology of Playfulness. Behaviour. 2016;153 (6-7): 819-844.
この研究によれば、ラットには「遊びの脳内回路」がしっかりあり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろうという。遊びは強烈な快感を引き起こすために、ラットは成長の過程でそれを回避することはない。そしてラットは彼らにとっての「思春期」に至るまで、ジャレまくるという (Panksepp,1981)。それは生後35日がピークに当たるそうだ。(はやいな!)そして興味深いことに、じゃれあうカップルは抑えたりたたいたりを大体均等に行うという。つまり追っかけたり、追っかけられたりが交互に行われ、決して一方から他方への追跡行動が続くわけではない。もしそうであればパワハラになってしまうのだ。ここがとても大事である。またジャレ合いはラットが隔離されている時間に比例して起こるという。つまりしばらく隔離されていると、より激しく長時間遊ぶという。 
さてSiviy などの論文にも出てくる、
social rough and tumble play RTP) には「喧嘩ごっこ」とか「乱闘遊び」などの訳もあるようだが、「じゃれ合い」でいいのではないか。荻本快先生の論文(2014)によれば「RTPには定訳がないので『乱闘遊び』という表現を使う」とある。確かにネットで「じゃれ合い」の英語表現を探すと playing around、 horsing around と出てくる。でもこれらは「戯れる」というニュアンスであり、「ジャレる」にあるラフで手荒な要素はあまり表現されていない。ということで私はRTP=じゃれ合いという風に適宜言い換えることにする。 荻本快(2014)幼児の自己制御を育む父子遊びの発達力動理論-介入プレイ観察による力動理論の構成 Educational Studies 56 81‐88 International Christian University.