2024年4月18日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 8

 第三段階 交代人格はやがて統合されるべきである

この段階での誤解は、交代人格が統合されることが治療の進む道であるという考え方にある。これは、第一、第二の段階の誤解をクリアーし、解離性障害の存在を実感し、治療場面やそれ以外で交代人格に出会うという経験を持った後でも生じうる。
 私はこれを誤解としてここで示したいが、誤解を受ける前に断り書きをしておきたい。統合はそれが自然と生じる場合には恐らく望ましい方向であろうし、私はその可能性を否定するものではないということだ。あくまでも治療者がその統合を望ましいものとして最初から積極的に促す場合について言えることだ。
 私はいつも不思議に思うのであるが、交代人格たちはやがて統合されるべし、という考え方はかなり無反省に持たれているということである。本来一つであるべきものが複数に分かれているのであれば、それは将来一つに戻るべきである、というのは常識の範囲内の思考かもしれない。それに今私は「本来一つであるべきものが複数に分かれている」という言いかたをしたが、ここにすでに誤解の素地が見られると言っていいだろう。実は一つの人格が別れて交代人格が生まれるのではない。いくつかの人格が複数生れた、という言いかたが正しいであろう。性質a,b,c,d,e,f,g・・・を持っていたAさんが、a,b,c を持ったA1さんと、d,e,f,g を持ったA2に分かれるのではない。通常はAさんとは全く異なるBさんがある日突然出現するという形を取るのだ。どこにも「分かれ」は生じていない。しかし複数の人格が存在するという事実は認めるとしても、それは「一つのものが分割されたもの」とは限らないという点が、多くの人にはなかなか納得できない。


2024年4月17日水曜日

精神療法と強度のスペクトラム 

 
「強度のスペクトラム」についての発表が迫ってきた。こんな感じで話すという内容を少し書いてみる。

1.精神分析と精神療法にはおおむね共通の「治癒機序」が働くと考えることが出来る。その意味で両者に本質的な相違を設ける必要はない。(この立場は高野の「近似仮説」、藤山の「平行移動仮説」に近い。)このことは特に「分析を受けないと本質を体験できない。ちなみにこれは私自身の体験から言えることではないかと思う。週一回でも4回でも、あえて言えば精神科の外来での面接でも、精神療法でも、同じようなメンタリティが持続して生じていると思われるからだ。
  2.その意味では精神分析を精神療法のスペクトラムの一つの在り方として理解すべきであろう。(この見解は精神分析を精神療法の下に位置づけることになり、精神分析家たちにとってはあまり面白くないかも知れない。しかし米国の分析協会の最近の理解に沿っているとも言える。これについては後に資料を提供したい。)
  3.他の条件が同じであれば、もちろん週4回の方がベターであろう。しかしそれは「週4でないと本物でない」、という議論にはつながらない。(この点についてはもちろんである。ただし回数が多いことで退行が進んでしまう、或いは依存傾向が増してしまうという場合には、もちろん回数が多いほどいい、という理屈は成り立たない。)
  4.4回か週1回かは、「どちらがより望ましいか」だけによる選択ではない。通常は金銭的、時間的な負担、治療者側の種々の都合などが勘案された折衷案(妥協策)である。(精神分析は非常に有効であるから、仕事や趣味を犠牲にしても週に4回以上のセッションに導くべきである、という議論は極端であろう。仕事や個人生活を大事にしつつ、治療を行なうためにはどのくらいの頻度が最適化は、ケースバイケースである。)

2024年4月16日火曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 7

 第二段階 交代人格は無視すべきである

 解離をめぐる誤解と否認の第2段階は、解離性障害の存在については認めるものの、交代人格にはかかわらない、無視すべきであるという方針を持つ臨床家である。この段階にある臨床家はどれほどいるかはわからないが、決して少なくない。というよりは臨床家の大多数が当てはまるかもしれない。トラウマ治療で名高い杉山登志郎は以下の様に述べる。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない(p.105)。

杉山登志郎(2020)発達性トラウマ性障害と複雑性PTSDの治療. 誠信書房
 

 このレベルの誤解、すなわちDIDという病態の存在は認めつつ、交代人格を無視するという立場は、第1段階よりはその否認のレベルは低いといえよう。ただし考え方によってはより複雑な問題を生む可能性がある。ある患者さんは依然かかっていた医師から次のように言われたと報告する。

「私は解離についてはとてもよく勉強しています。そのうえで私の立場は、交代人格については扱わない、というものです。」

 このように告げられた患者は、最初から解離を信じないといわれるより、より一層当惑する可能性がある。それはその治療者がある意味では解離についての専門的な知識を備えているとみなすべき人だからだ。解離を熟知している専門家から交代人格とは会わないと言われた場合には、患者は自分の中の人格の存在そのものを否定されたと感じてもおかしくない。そしてそのような結果を招くということを考えれば、この段階にある治療者は、実は第1段階に近いことになる。それは依然として交代人格に現実性reality を見出さないことは変わらないからである。そしてその意味では社会認知モデルにも案外近いことになるだろう。

 このレベルについて私はかつて「解離否認症候群」という概念を提示したことがある。2015年に出版した「解離新時代」(岩崎学術出版社)でこれについて述べた際には、あまり学術的なものではなく、むしろ皮肉を交えた表現を試みたわけである。しかし私はそれを近著(「解離性障害と他者性」岩崎学術出版社、2022年)でも再び論じた。それはこの症候群に該当する治療者は依然として多いと感じたからだ。この症候群を有する治療者は6項目にわたる特徴を有するとした。

「解離否認症候群」にある人(主として治療者)は以下の主張をする。

1.  私は典型的なDIDに出会ったことは多少なりともある。

2.  私は「自分は自分がDIDである」という人たちにも何人か出会ったことがある。

3.  「自分がいくつかの交代人格を持つ」という人たちの主張は基本的に「アピール」であり、それ自体が彼らにとってのアイデンティティとなっている。

4.  そのような人たちへの最善の対処の仕方は、交代人格が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.  交代人格は、それを相手にしないことで、その出現は起きなくなる。

   6.  解離性障害、特にDIDはその少なくとも一部は医原性と見なすことができる。

  この1.は「私はDIDに出会ったことはない」とは決して言っていないというところがポイントだ。つまり実際のDIDの患者さんとの接触はあり、その意味では素人ではないと主張していることになる。また2.は、実際のDIDの方それにもまして多く接してきたのが自称DIDの方であり、それらの人々の訴えは3.で示すとおり、一種のアピール、自己主張であるにすぎない、とする。つまり本物ではないというわけだ。そして4,5で示すとおり、その最も有効な対処法は、それらの人を相手にしない、真剣に受け止めないという事であるとしている。この「相手にしない」という方針は実に効果的であることは確かなことだ。なぜなら一度相手にされないという体験を持った人格さんは、もう二度とその人の前には出たいとは思わないであろうからだ。

この解離否認症候群は一般の治療者に限らず、患者さんの家族にもみられることがある。この症候群を有する家族は、家族の一員が呈する解離症状を、それによりある種の得(いわゆる「疾病利得」)を求めたものであると考える傾向にある。その「得」には学校をずる休みする、仕事を怠けて休む、あるいは他人の同情を買う、などの様々なものが含まれる。


2024年4月15日月曜日

脳科学と臨床心理学 あとがき(失敗作)

 あとがき(失敗作)

 本書は遠見書房により2023年春に創刊されたオンライン・マガジン「シンリンラボ」の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2023年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたものである。一冊の本としての体裁を整える過程で内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来た。私にとって執筆とは、それを機会に特定のテーマについて考える手段なのであるが、この連載もまさにその役割を果たしてくれた。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応もあり得るだろう。結局私は私自身の学習に読者を付き合わせてしまうことになる。そのことには多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、一つの考え方の例はお示しできたと思う。

 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例のテキスト

自動的に生成された説明

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んでそこに見られる「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つ心に行きつくのか?というテーマだ。

この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えだ。むしろ私達の心や意識がバーチャルであり、いかに特殊なのか、という認識である。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルに快/不快を与えられている存在に取っての特権なのである。

すでに線虫の段階で快、不快につながるドーパミン作動性の神経が確認される。線虫を針でつつくと、おそらく体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバで針でつつくとその様なしぐさを見せる。)しかしそれは本当の痛みを伴ってはいないだろう。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
  恐らく大脳辺縁系を備える爬虫類より上の進化の段階で生命体は痛みを覚え、すなわち意識を宿している。そしてそれはクオリアであり意識の現れなのだろう。こうして心が芽生えていくプロセスは、パーセプトロンに始まるニューラルネットワークの進化とは決定的に異なるのである。

このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を迫られているのである。


2024年4月14日日曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 6

昨日の夕方に入って来た大谷君の「4号ソロ」のニュース。先日の藤井君の逆転劇と言い、本当に彼らに感謝している。エネルギーを注ぎ込んでもらっているからだ。(実に身勝手な「ファン」であるという自覚はある。) 

(承前)ここで私がむしろ論じたいのは、社会認知モデルを信奉するような、ある意味では筋金入りのDID否定論者とは別の意味で、むしろ目立たない形で、ないしは受動的に解離の否認を行なっている場合である。社会認知モデルの存在さえ知らない臨床家は圧倒的に多いであろうし、その場合に生じる否認の方が頻度としてもより多いと考えられるからである。そこで関係してくるのが無知に絡むある種の認知バイアスである。

 「無知によるバイアス」とは、ある事柄について無知であると、その存在自体を軽視、ないし否認する。いわば無知であることを否認するのである。経済学者ダニエル・カーネマン Daniel Kahnemanはその著書「ファスト&スロー」で、「自分に見えているものだけがすべてだ(WYSIATI)」という認知バイアスについて語っている。WYSIATI とは What you see is all there is であり、要するに私たちにとっての世界は、私たちが知っていることでのみ構成されているということだ。そして目の前で生じていることについて、自分が知らないことにより説明しようとはしない(あるいは実質上できないと感じる)。比喩的に言えば、目の前で起きていることについて説明を試みる際に、自分のよく知らないピースを組み合わせてパズルを解くことはしないしまた出来ない。カーネマンはまた「私たちは自分たちの無知に関して無知でいられる無限の能力を有している」とまで言う。
 私が第一段階の誤解や否認について述べるとき、これは解離についての(少なくとも認知レベルでの)知識を有していない、という事ではない。それは知識としてはあっても、具体的な臨床体験に基づくものではないため、「ピース」としては有効ではなく、臨床像を描くために使うことが出来ないという事である。
 例えばある患者が医師に対していつもと違った声の調子や雰囲気で語りかけてくるとしよう。そしてその患者は前回の診察の時に語ったことを覚えていないという。その医師はその患者の様子に戸惑い、不思議に思う。その医師は解離性障害について知識としてはわかっているが、実際に臨床上で遭遇したことはないため、その患者の様子を説明するための情報を持ち合わせてはいない。つまりその状況を解離症状としてよりよく説明する様なパズルのピースを持ち合わせていないのだ。
 するとその医師はいつもと違った気分なだけであろう、前回の面接の内容を覚えていないというのも正常範囲での健忘であろうと考え、それ以上の説明をしようとしないのである。

2024年4月13日土曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 5

 解離をめぐる誤解と否認の三段階

 解離をめぐる誤解と否認に関しては様々なレベルがありうるが、以下の三段階に分けて論じることが可能であると考える。一段階目は解離性障害が臨床家により認識されない、否認されるという傾向に関するものである。二段階目は、解離性障害の存在を認知したうえで、それでも交代人格と出会うことを回避することに見られる誤解である。そして三段階目は、交代人格と実際に関わる際にも存在する誤解である。

第一段階 解離性障害は存在しない
 解離性障害に関する誤解や否認の第一段階は、そのような疾患ないしは状態は存在しないというものである。ただしこれは精神科医や心理士の間では表立っては聞かれないであろうと考えるのが自然かもしれない。通常の専門知識を有した精神医療関係者であれば、「解離性障害(特に解離性同一性障害)」が一つの精神障害として米国のDSMやWHOのICDなどの診断基準に揚げられていることを認識しているはずである。ただしこの医療関係者の間でさえも、この「解離性障害は存在しない」は存在し得る。さらに「本当の意味では」ないしは「現実の障害としては」というただし書きがつくならば、この種の誤解を有する人の数はさらに増える可能性がある。それは解離性障害を医原性のものと主張する学説が存在するからである。つまりこれは単なる認識不足として片づけられない問題をはらむのだ。参考文献:Meganck,R. (2017) Beyond the Impasse – Reflections on Dissociative Identity Disorder from a Freudian–Lacanian Perspective. Frontiers in Psychology. Vol 8, SN 1664-1078)

少しだけ歴史を振り返ろう。解離性障害が正式にDSM-Ⅲに登場したのは1980年である。しかし1990年代になっても、そしてある意味では現在でも解離性障害をめぐる二つの立場の対立が見られるとされる。それらはPTM(トラウマ後モデル)とSCM(社会認知モデル)の対立である。このうちPTM(以下、トラウマモデル)は一般に解離の治療者に馴染のあるモデルであり、解離は早期のトラウマ体験に由来するものと理解する。ただしそのトラウマとして考えられたのは最初は性的虐待や悪魔崇拝儀礼虐待 Satanic ritual abuse などが考えられていたが、最近では愛着障害が中心テーマとなりつつあるという歴史的な変遷がある。
 このトラウマモデルによれば、治療の焦点はトラウマ及び交代人格ということになる。
 他方の社会認知モデルは、DIDは医原性のものだと主張する。この説によれば、DIDはトラウマに起因するのではなく、文化的な役割のエナクトメント cultural role enactment 又は社会的な構成概念の産物 social constructions となる。そこでは治療者の示唆、メディアの影響、社会からの期待などが中心的な原因と考えられるのである。たとえばその代表的な論客である Spanos の主張によれば、「過去20年の間に、北米では多重人格は極めて知られた話になり、自らの欲求不満を表現する正当な手段、及び他者を操作して注目を浴びるための方便となっている。」(Spanos, 1994)となる。

Spanos NP (1994) Multiple identity enactments and multiple personality disorder: a sociocognitive perspective. Psychol.Bull.116,143-165.

同様の主張は臨床家を対象として書かれている著書などにも見られる。エモリー大学准教授のスコット・リリエンフェルドScott Lillienfeld (2007)は社会認知説を擁護する記述で一貫してその主張を展開しているのだ。

リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 (2007)巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房.

 そこでの主張を読むと、治療者は「交代人格が現れるように促し、あたかも個々の交代人格にアイデンティティがあるかのように扱っている」とする。(p.100)という記述に尽きる。しかし実際には、すでに表れて問題が発生している場合に、交代人格の存在が「見つかる」という順番が通常なのである。

実は私は解離性障害についての様々な議論について、出来るだけ平等な立場から論じるつもりでいた。しかし社会認知説の誤謬性は私の想像をはるかに超えたものであった。それに対する反論は一言に尽きる。社会認知説は治療者が交代人格を生み出しているという主張である。しかし現実には患者自身が知らないところで別人格が出現し、それを周囲から指摘されるという構造である。そして多くは異なる人格の存在を隠そうとする。彼らはおかしな人と思われたくないからだ。そしてそのことは個々のケースに虚心坦懐に触れればわかることである。SCMの主張の内容は、そのまま論者がケースに触れていないで論じているということを表しているに過ぎない。

ちなみにこの社会認知説に対する臨床家からの反論については、例えば以下のものが信頼がおける。

Gleaves DH.(1006) The sociocognitive model of dissociative identity disorder: a reexamination of the evidence. Psychol Bull. 1996 Jul;120(1):42-59.

Lynn, S. J., Maxwell, R., Merckelbach, H., Lilienfeld, S. O., van Heugten-van der Kloet, D., & Miskovic, V. (2019). Dissociation and its disorders: Competing models, future directions, and a way forward. Clinical Psychology Review, 73, Article 101755. https://doi.org/10.1016/j.cpr.2019.101755

ただしそれでも驚くべきことは、現在においてもこの二つのモデルが対立しているとされているということだ。このことは真剣に受け止めなくてはならない。ほかの精神科疾患について同様の傾向が見られないのである。(たとえば「統合失調症や双極性障害は医原性である」という説が現在においても存在し得るかということを考えればわかるであろう。)


2024年4月12日金曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 加筆訂正部分

 フロイトにとっての脳というハードウェア

ちなみに100年以上前に精神分析を考案したフロイトの出発点は、ハードウェアとしての脳への関心であったことは興味深い。神経系が微細な神経細胞とそれを結ぶ神経線維により構成されていることが分かったのは1800年代の終わりであったが、フロイトはそれを初めて顕微鏡下に見出した一人であった。現実の脳の構造の一端を見出したフロイトは、この時おそらく大興奮しただろう。

フロイトはそれ以前から精神の働きにある種の量的な性質がある事を見出していた。そこには彼の師である19世紀のドイツの大生理学者ヘルマン・ヘルムホルツの自由エネルギーに関する理論が背景にあった。それによると生体はその精神的なエネルギーを最小限にすることを常に目指すことになるが、それはフロイトのリビドー論の発想の原点ともいえる考え方であった。
 脳の構造の一端としての神経細胞を見出したフロイトは、ある大胆な仮説を設け、そこから心の理論を導き出そうとした。その仮説の一つが透過性のニューロン(φ)と非透過性で抵抗を持つニューロン(ψ)との区別である。彼は神経細胞間を何かのエネルギーが伝達されると考え、そのエネルギーを通過させるだけの神経細胞と、そこでそれを溜めたり通過を阻止したりする神経細胞に違いがあると考えた。そうすることでエネルギーの量に細胞間での差が生まれ、満足体験や不快体験、ないしは記憶などの精神現象が起きると考えたのだ。

フロイトはこれらの仮説をもとに熱に浮かされたように短期間で原稿を書き上げ、フリースに送ったが、それが後に「科学的心理学草稿」(1895)と呼ばれるものであった。しかし結局フロイトはそこから心の理論を構築することを諦めざるを得なかった。それはハードウェアとしての脳の在り方として得られる情報があまりに限られていたからである。そしてその後フロイトは脳の研究を離れて大胆な心の理論、すなわち精神分析理論を構築したのである。

このフロイトの転身について、ノルトフという学者は次のように述べる。「フロイトの時代の神経科学では、脳を外側から外部からしか脳を記述できなかったためであり、彼はその代わりに精神を内部から解剖することを試みたのだ」(Holmes,p.114)

ただしフロイトが「科学心理学草稿」で試みようとして十分追求しきれなかったモデルは、実は現代において引き継がれている。それがイギリスの研究者カール・フリストンにより提唱された「自由エネルギー原理」である。そしてその意味ではフロイトが「科学的心理学草稿」で唱えた理論は極めて先駆的であったと言えるのだ(Holmes, 2020)。このように科学の歴史では一度は廃れたように思える理論が後になって息を吹き返すという現象がしばしばみられるのである。